
おはようございます。
午前10時半、某プロジェクトのミーティング。着実に進んでいるように思える。技術的問題はA氏の尽力によりクリアされつつある。午後1時、S社とミーティング。4時、同友会事務所。北海道中小企業家同友会常任理事会。モニターに映し出された参加者を見ると、ネクタイを締めていたのは僕だけであることに気がついた。全道的に猛暑日だ。僕はずっと短パンで過ごしていたため、その感覚が希薄だった。6時20分帰宅。
気づきすぎると頭ズキズキ
その昔受講した研修の中で、「気づくことは傷つくこと」という話があった。確かにその通りだと思った。僕も気づくことで傷つくことがあった。気づきの半分は、自分の至らなさによるものだった。もう半分は自社の社風や企業文化。それらの負の側面に気づいて傷つくことがあった。2000年代前半のことである。
今でも、気づくことで傷つくことはある。だが、自分の未熟さは多少なりとも改善され、我が社の社風や企業文化も次第に変わっていった。この点では、単純に傷つくという場面は減ったと言える。我が社のみんなはどうなのだろうか? 20年近く前の僕のように傷ついている人もきっといるに違いない。傷つくと、当然のこととして痛みを感じることになるが、そこで得た気づきは自分の人生に必要なものである。痛みを感じるのは一瞬(といっても数週間長引くこともあるが)。痛みなくして、前に進むことはできない。
誰かに傷つけられて痛みを感じる。あるいは、誰かを傷つけたことによって痛みを感じる。そうした対人関係における気づきだけが痛みの原因ではない。「我が社はどうしてこのようになっているのだろう?」という要因、真因を探ることによって気づくこと、傷つくことがあるのだ。
今日の我が社を形成しているのは、創業から今日までに関わった数多くの人々の言動や行動の結果と言える。その中にはキーパーソンと思えるような人たちがいる。社歴の長い人であれば、頭の中に何人か浮かんでくるに違いない。そうしたキーパーソンによって、会社が発展したり、意外な方向へ導かれていくことがある。
立派な経営理念を掲げても、キーパーソンの影響力がより強ければ理念通りの会社にはならない。その場合は、より強力な理念を掲げるか、強力な理念の実践者が会社には必要となる。
また、自社の社歴を振り返ってみると、とんでもないピンチに陥ったり、大きなダメージを受けた時期があることに気づく。それをどのように乗り越えたのか知ることが重要だ。自分にとって直接的なものではないが、自社が紛れもなく経験してきたこと。それが今の社風や企業文化の中に刻まれているのだ。
我が社は創業67年(2021年現在)という会社だが、100年、200年という社歴を持つ会社ならば、無数の窮地をくぐり抜けてきているはずだ。きっとそこには献身的、超人的、命懸けの労苦を味わった人がいたに違いない。そうした先人の努力があって今日の自社がある。
そのあたりに思いを巡らせると、何とも言葉では言い表しがたい気持ちになってくる。気づきがいくつも同時にやってきて、頭がズキズキしてくるのである。「助からないと思っても助かって居る」という河井寛次郎の言葉が頭に浮かぶ。自社は助けられている。自分も次世代以降の人たちにとっての「先人」にならねばならない。そんな自覚に目覚めるようになる。
今目の前で起こっている出来事に対して、頭がズキズキするのではない。きっと、今日の自社を築いた先人たちの記憶が脳に刺激を与えているのではないか? このところ、気づきすぎて頭がズキズキする日が増えている。大事なのはケロリンを飲んで頭痛を解消することではなく、新たな伝説(ちょっと大袈裟かな?)を生み出すことだ。
