
おはようございます。
午前中は原稿執筆。続いて、ある資格を取得するための活動。思ったよりも時間がかかりそうだ。午後2時再びパソコンに向かう。同窓会会報の原稿をまとめる。まだ素材が揃っていない。できるところから着手する。5時には仕事を終える。
健忘症より冒険しよう
僕の机の前にはホワイトボードがあり、そこにはサミュエル・ウルマンの「青春」という詩が掲げられている。仕事の合間、ふと見上げると「安易を振り捨てる冒険心」という言葉が目に飛び込んできた。安易な方向へ流されてはいないか? 常に自分を律していないと、つい流されてしまうものである。特に僕は性格的に流されやすいタイプ。何があっても水に流して、わだかまりを持たないというのが僕の自覚する長所ではあるが、周囲に流されてとんでもないところにたどり着いてしまうと短所も持ち合わせている。この場合、気をつけるべきなのは「安易な方向」である。
さらに言えば、自分の意思で「流す」のはよいが、周囲からの影響によって「流される」のは禁物だ。何事も自分の意思で決めることが重要。他人の言葉に素直に従う場合であっても、最終的に意思決定するのは自分である。自分で決めないことには、責任を果たすことはできず、期待する成果は得られないのは当然のことだ。
「自分で意思決定しない」というのは、「安易」の典型的パターンと言える。たとえば、「夕食を何にするか?」と問われて「何でもいい」と答えるのは安易というほかない。1日3回、1年で約1000回。僕の人生プログラム通りにいけば、これから4万回食事をすることとなる。だが、終盤の10数年間は食が細くなる可能性もある。3万2000回くらいと考えるのが妥当だ。その1食1食が真剣勝負。もちろん、周囲の人の意向を尊重するにせよ、「自分は何を食べたいのか」本心から考え、選択することが重要だ。人生は選択の連続であるから、1日3回やってくる食事の場面は、自分の意思決定力を鍛える絶好のチャンスである。
安易な方向へ流される自分。それが身についてしまうと、本来誰もが持っているはずの冒険心が影を潜めてしまう。かといって、「自分の冒険心は失われた」とは認めにくいもの。その結果、無自覚的にではあるが、健忘症を偽装するような局面が訪れる。健忘症は病気であるから、当然ながら本人に責任はない。しかし、無意識的にではあっても忘れたフリをする偽装の健忘症になってはいけない。ちなみに、僕は「卓越した忘却力」を持っているが、これは都合の悪いことだけを忘れるといった、タチの悪いものではない。
冒険するには「安易を捨てる」のが一番。ということは、「迷ったときには困難な道を選ぶ」という選択法が正しい。これはよく言われることであり、原則と言ってもよいだろう。ただし、むやみに「困難な道」を選ぶべきではないと思うことがある。選んだ以上は行動せねばならない。行動の伴わない選択は、選択とは言わない。僕は、過去に何度か「困難な道が正しい」と思って選択したものの、同時期にいくつも困難な道を選んで、行動が伴わず、非常にやっかいな状態に陥ったことがあった。安易そのものを避けると同時に、安易な選択も避けねばならない。
冒険とは、まだ起こっていない結果についてクヨクヨ考えることなく、自分や自社の可能性を信じて、思い切った行動をとることだろう。現状を把握し、予測をすることは必要だが、それは「失敗したらどうしよう」と考えるためではない。可能性は低くとも、できる方法を考えたり、できない方法をつぶしていくことが大切である。
物事を成し遂げる人は、結局のところ「できるまでやる」というシンプルな行動様式を貫いているように見える。人生には忘却力も必要だが、目的・目標を忘れてはいけない。必ず達成すると決めれば、自分の裡にある冒険心の存在に気づくはずだ。
