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使える!ビジネス迷言・第25話「美の程知らず」

使える!ビジネス迷言・第25話「美の程知らず」

おはようございます。
 午前9時半、出発。清里へ向かう。何通りかの行き方がある。あれこれ考えず、ナビ通りに車を走らせてみると……。大幅に時間がかかった。到着したのは午後1時半だった。「ゆったりある記」の取材・撮影。帰路は走り慣れた道を選択。おもしろみはないと思っていたが、途中、不思議な集落があることに気がついた。6時45分帰宅。

美の程知らず

そういえば、「身の程知らず」という言葉を滅多に聞かなくなった。よいことだ。このような言葉を使う人は上下関係意識の強い人と思われる。「○○の分際で……」に近い言葉。自分の能力がどの程度のものかは知っておくべきだが、自分の考えを堂々と述べたり、思い切った行動を試みることは、自分を成長させる上で欠かせないこと。若手の人は「身の程知らず」くらいがちょうどよい。
 写真を撮りながら、「美に限界はない」と思うことがある。ここで言う「美」とは、いわゆる絶景と呼ばれるようなものではない。絶景の美にも限界はないと思うが、身の回りにある美しいものにも、やはり無限の美を感じる。
 風景を撮り続けると、いつか飽きてしまうのではないか? 10数年前、そう考えたことがあった。いつも同じようなところを車で走り、同じような場所で何度も撮影する。きっと飽きるに違いない。だが、実際には飽きることがない。飽きるとしたら、風景に対してではなく、自分のものの見方に進歩がないことが最大要因だ。自分自身に飽きているのである。
 僕は葉っぱの裏側が好きで、よく写真を撮る。もしかすると、「裏」に美を感じているのかもしれない。石碑の後ろ側をチェックしたくなるし、本を手に取ったら奥付を見たくなる。自分の視点を変えると、別な美しさに気づくものである。ここ数年は、花を真俯瞰から見ると美しいということに気がついた。小さな花びらの中に宇宙があると感じることもある。
 今はコロナ禍にあるから、絶景を訪ね歩きたいという人はきっと不自由な思いをしているに違いない。僕も絶景を訪ね歩いてみたいが、被写体としては「ありふれた風景」のほうがいいと思っている。絶景は誰もが美しい、すごいと感じる風景。一方、ありふれた風景の場合、その美しさに気づいているのは自分だけ、という場合が多い。発見する楽しみがあるのだ。
 あるとき、僕は「美」という文字そのものが気になった。調べてみて、なるほどと思った。美は「羊」と「大」に分解される。羊は宗教的祭式において献物とされてきた。犠牲の動物。美には「大いなる犠牲」が含まれているとも解釈できる。
 だからといって、「犠牲=美しい」とは思わない。しかし、僕らは何かを犠牲にして、意味のある仕事をしよう、自分自身を高めようとしている。
 受験勉強をした経験のある人なら、睡眠や遊ぶ時間を犠牲にして合格を目指したはずだ。社会人になった今も、仕事を完結させたり、目標を達成するために、何かを犠牲にすることがあるのではないか? 犠牲にしてよいものと悪いものとがあるが、何かを差し出さなければ、欲しいものや結果は得られないのが世の常だ。
 自己犠牲という言葉についてときどき考える。我が社のみんなには犠牲的精神を発揮してもらいたいとは思っていない。自分を犠牲にしてはいけない。ただ、自己実現するために、「自分の何を差し出すのか」について考えておくべきだろう。それは自分の人生の豊かさや幸せに直結することではないかと思う。惜しみなく差し出したとき、本当に欲しいものが手に入る。そのような生き方をしている人を観察すると、一見無欲のように見えるが、その行動は実にエネルギッシュ。大欲を持っており、努力することを惜しまない。それこそ、美の程知らずな生き方ではないかと僕は考えている。

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