
おはようございます。
午前9時半、十勝ファーマーズマーケットへ。のどかな休日風景が広がっている。風が冷たく、「寒い」という人が何人かいた。僕は半袖でちょうどよい。野菜等を購入して帰宅。早めの昼食。午後は前日に続いて試験問題に取り組む。やはり難解な設問がある。夕方になって、ようやく最後までたどりついた。あとはパソコンに記録した解答を用紙に手書きで書き写すだけ。
お安い誤用?
「後生畏るべし」ということわざがある。孔子の言葉。後生とは後から生まれた人のことである。自分より若い者はさまざまな可能性を秘めており、将来どれほどの人物になるかわからない。若いからといって見くびってはいけない、という意味。
出版業界には「校正畏るべし」という言葉がある。とある講師の言葉……。このように書いても、さほど違和感は感じられない。この場合は誤用ではない。校正を見くびってはいけない、という戒めとして伝えられているのだろう。
しかし、後生(若手の人)が「後生畏るべし」を知らなければ、「校正畏るべし」が正しいと思って、校正の際、「後生」に赤を入れてしまうかもしれない。この種の思い込みによる校正ミスは案外多いのではないかと思われる。自分でもミスをすることがあるかもしれない。
僕は仕事柄ということではなく、子供の頃から言葉には敏感なタイプだった。たぶん中学1年の頃、家庭教師でも塾でもなかったと思うが、少人数の子供に勉強を教えてくれる人がいた。その人の言葉が僕は気になった。何度も「よういる」という言葉が出てくるのだ。「よういるって何?」と思って聞いていたが、3、4回目で僕は気づいた。「用いる」のことだった。「よういる」以外はちゃんとした先生だったので、僕はこれを自分への戒めとして、言葉を正しく使おうと思うようになった。
それでも、思い込みによる誤用は自分の中に必ずあるものだ。高校時代まで、僕は「凡例」を「ぼんれい」だと思っていたのだからお恥ずかしい限りである。某編集者も「清々しい」を「きよきよしい」だと思っていた……という微笑ましい(?)エピソードを披露してくれたことがある。
新聞では滅多に誤用は見つからないが、雑誌ではときどき誤用を発見することがある。雑誌「スロウ」一冊を丹念に読めば、たぶんいくつかの間違いを発見できるはずだ。何度も入念に校正していても、ミスをゼロにすることは困難なもの。固有名詞、電話番号、事実関係の誤認等は避けねばならないが、文章表現に関して言えば、文意が伝わるのであれば「お安い誤用」と読み飛ばしてもらえるとありがたい。書き手は真剣に執筆し、編集部の複数名で校正した結果、それでもミスが発生する。完全無欠なおもしろみのない文章よりも、誤用はあっても読み応えのある文章のほうが雑誌としては価値があるはずだ。僕はそう思っている。
誤用と思っていたものが誤用ではなかった、ということもある。「的を得る」は、「的を射る」か「当を得る」の誤用とされてきたが、三省堂国語辞典では第七版から正しい用法として掲載されている。誤用がいつの間にか言葉として定着することもあれば、歴史をたどった結果「正しい」と認定されることもある。
ネットで調べ物をすると、ビックリするような誤用や入力ミスに遭遇あることがある。昨日、校正ミスについて言及したサイトの文章を読んでいたら、何度も「公正」という言葉が使われていた。ミイラ取りがミイラになっている。紙媒体に比べるとネットの校正は甘いものが多い。あるいは確信犯的な誤用や、そもそも日本語の体をなしていないものもある。「お安い誤用」と言ってばかりはおられない。
ビジネスパーソン、とりわけ経営者や管理職にある人は、ちょっとした誤用から自社の能力を疑われることがある。「校正畏るべし」を肝に銘じなければならない。