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偶然とその前後04 覚えている言葉

偶然とその前後04 覚えている言葉

おはようございます。
 予定されていた取材は延期となった。このため、来期経営計画書の作成に全力を注ぐことにした。書斎の一番大きなホワイトボードをきれいにする。貼付物をすべて外し、マーカーの文字をすべて消した。真っ白になったホワイトボードにキーワードを書き込んでいった。ホワイトボード全体の半分くらいを埋めると、頭の中がまとまってきた。ここからはアウトライナーのworkflowyを使った作業。盛り込むべき中身をほぼすべて書き込むことができた。午後3時頃から原稿を書き始める。週明けまでの完成を目指す。

覚えている言葉

僕は「忘却力の魔術師」と自認しているのだが、実はそうではないのかもしれない。重要なことを忘れてしまい、どうでもよいことを覚えている。そうかと思うと、「どうでもよさそうに見える重要なこと」をしっかり覚えていて、そのときのシチュエーションや相手の表情まで記憶に刻まれている。
 つまり、自分の理性ではコントロールできるものではないということなのだろう。無意識の領域で、これは重要、これは忘れてもよいと区別しているのかもしれない。実際、僕が重要だと思っていることは「中程度の重要度」であることが多い。だから、困ることはあっても致命的となることはほとんどない。たまに、致命的忘却によって窮地に陥ることがある。たぶん、無意識の自分が区別を間違えたのだろう。そんなときは、ギリギリになってから思い出す。そういうことは年1度程度にしたいものだが、自分(理性)の自由にはならないものだ。
 興味深いのは「どうでもよさそうに見える重要なこと」である。僕の場合、重要なことは言葉であることが多い。「重要そうに見える重要なこと」は、ちゃんと覚えておこうと意識する。だから、長期記憶に組み込まれる可能性が高い。一方、「どうでもよさそうに見える重要なこと」は覚えておこうなどとは考えない。いったんは完全に忘れている。それが、10年後、20年後、タイマーがセットされているかのように突然思い出すのである。
 ずいぶん前の話だが、「過飽和が飽和なのだ」という高校のときの先生の言葉を思い出した。原稿の執筆が進まず、眠くてたまらない。だが、眠ってしまうと締め切りに間に合わない、という状態のとき。思い出したからといって、執筆のスピードが上がるわけではない。だが、ほんのわずか救われた。それ以来、僕の座右の銘である「助からないと思っても助かっている」と並ぶ名言として認識するようになった。
 このときのシチュエーションや先生の表情はよく覚えている。覚える必然性は何もない。授業の中身とまったく関係なく出てきた言葉。いかなる理由から発せられた言葉なのかは不明だ。発した先生も受け取った僕も、たぶん当時は重要だと理解していなかったはずだ。僕の無意識だけが重要度に気づいていた。
 そういう体験は誰もが持っているに違いない。30年くらい経ってからひょっこり出てくる言葉もあるから、若い人にはないかもしれない。先日、高校の同級生にZOOMでインタビューしたら、興味深い言葉を教えてくれた。山岳部の顧問の先生が「この山の形は悪魔的だよな」と言ったのだそうだ。その後、彼は自然ガイドとして活躍することになる。どこか関連があるに違いない。
 意識的であれ、無意識であれ、人は四六時中、自分の人生について考えているのではなかろうか。ぼんやりテレビを見ているときも、眠っているときも、「自分はどうあるべきか」について考えている。意識レベルで思い出すことのできる情報には限りがあるが、無意識レベルでは無限に近いのだろう。今の自分に必要な言葉、音声、映像、味、匂い、触覚といったものを絶妙なタイミングで呼び出してくれる。
 それらによって窮地を脱したこともあれば、内省的な気持ちになることもある。無意識は、常に現在の状況に符合する過去の体験を探し出そうとしているのだと思う。

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