
おはようございます。
午前中は写真セレクト作業。午後は写真選び。同じように思える作業だが、撮った写真から「使う可能性のあるもの」を抜き出すのをセレクト、「実際に使用する写真を選ぶ」ことを写真選びとして区別している。昨日は一日中モニターを見続けることとなった。なぜか、作業に熱中してしまった。当然の結果として眼精疲労がやってきた。
偶然至上主義的な撮り方
写真を撮るときは、たいていの場合「偶然」が起こることを期待している。ここで風が吹かないかとか、鳥が飛んでこないか……などと期待する。実際そのようなことが起こることもあるが、たいていの場合、期待した偶然がやってくる前に撮影を終える。2003年12月以来、すっとそのような写真の撮り方をしている。
何かが起こるのを待つということができなくなった。カメラを構えたら数秒以内にシャッターを押すようになった。これは気が短くなったとか、せわしなくなったということではない。偶然に期待するという手法ではない撮り方をすべきだと思うようになったからである。もちろん、これは僕に限ったことであり、辛抱強く偶然を待ったり、被写体がベストな状態になるまで待つ撮り方も当然あるべきだと思う。
僕はカメラを構えてシャッターを押すまでの数秒の間に起こる偶然に期待するようになった。そして、実際にそうした偶然が起こることがある。
偶然が起こるのを辛抱強く待つという撮り方は、ある意味「必然」に近い。予測し、その通りの出来事が起こるのを待つからである。一方、偶然が起ころうが起こるまいがシャッターを押す、と決めているときに起こる偶然は、純粋な意味で「偶然」に近いのではないかと思う。
偶然が起こることがすでに決まっていて、僕がたまたまその場に居合わせた。そんな状況なのではなかろうか。偶然というものを撮影者がコントロールするのか、撮影者もまた偶然の一部として存在するのか。この違いは、写真の中身に少なからぬ影響を及ぼしているような気がする。
偶然至上主義的な撮り方を続けていると、偶然に出合う確率はずいぶん低いものとなる。その結果、自分の目の前にはなかなか偶然が訪れない……という若干悲観的な気持ちに囚われることがある。その状態を乗り越え、「実は偶然に恵まれているのだ」という前向き、積極的な気持ちになることが偶然至上主義者(そんな人はいるのだろうか?)には必要だ。
僕はあるときから、ほんの些細な偶然を写真から発見するようになっていった。モニターで写真を拡大してみると、案外小さな偶然が写っている。あるいは何も起こっていないと思っていても、実は他人には気づかないような偶然が起こっていることがある。誰にもわからない自分だけの写真の楽しみ方ができるようになっていった。
写真は無限に続いているかのように思える時間の中から、ほんの一瞬を切り取っている。数100分の1秒というわずかな時間の中に、撮影した時点の「現在」が写っている。現在は過去の積み重ねの結果でもあるから、「過去」が写っていると考えてもよい。撮影者はもちろん、写真を見る者は、写真を通じて「被写体がどのようになっていくのか」イメージすることができるだろう。したがって、「未来」を暗示させる何かが写っているとも考えることができる。
写真を選んでいるとき、僕は「これから起こるかもしれない偶然」について考えることがある。というのも、偶然が起こる一歩手前の状態と思える写真が多いからである。そのような予感が働いてシャッターを押しているのかもしれない。
昨日選んでいたのは、「何年も前に起こった偶然」と「数年後に起こりそうな偶然」が写り込んでいると思われる写真群だった。10数年前に撮った写真の場合、すでに姿形が変わってしまったものもある。現在の一瞬を定着させ、それを半永久的に保存することができる。ここに写真のおもしろみがあるといってよい。