高原淳写真的業務日誌 > 偶然とその前後 > 偶然とその前後12 写真における「別な何か」

偶然とその前後12 写真における「別な何か」

偶然とその前後12 写真における「別な何か」

おはようございます。
 午前中は写真選び。次はレイアウト作業と思ったが、どうもうまくいかない。すべての写真をノートリミングで使おうと思うと、無意味な空白ができる。あきらめて、プロのデザイナーに頼むことにする。10時、商品と料理撮影数カット。撮影後、早めの昼食。午後は画質調整作業に徹する。全部で28点ある。暗室作業同様、覆い焼き、焼き込みのような作業を行うため、それなりに時間がかかる。5時過ぎ、作業を終えてデザイナーにデータを送る。土日の成果はスロウ9ページ入稿のみ。これから挽回せねばならない。

写真における「別な何か」

フィルムカメラの時代に撮った写真をすべてデジタル化したいと思っている。プリントされている写真はほぼスキャニングが完了している。ただ、マットに収められた写真は手つかずのまま。それに、大型の作品となると自分ではスキャニングできない。
 やはり、本来はネガからデジタル化を図るべきだろう。学生時代から2000年までのネガはすべて保存してある。35ミリのネガについては自分でスキャンしようと思って、数年前、フィルムスキャナーを購入したが、作業は一向に進まない。やはり外注すべきか。それにしても、写真を選ぶのに時間を要する。いつも「この山を乗り越えたら手を付けよう」と思っているのだが、山は山脈のように連なっている。
 20年以上前にデジタル化した写真が、ハードディスクの中に収められていることに気がついた。ちょっとわかりにくいフォルダ名を付けていたため、長い間開くことがなかった場所。
 写真を見て、軽く驚いた。明らかに自分の撮った写真に違いないのだが、見ると大昔の絵はがきのような写真のようにも見えるのだ。20数年前のフィルムスキャナーの性能はこの程度だったようだ。ハイライトが飛んでいる。ネガの持つ階調が再現されていない。だが、その分、ものすごく古い写真のように思える。
 写真はいくつもの偶然が作用してできあがる。「いくつも」とおおざっぱな書き方をしたが、「無数の」と言い換えるべきかもしれない。写真は被写体のある場所に自分が居合わせなければ撮ることができない。その場所へ行こうと思うところから偶然が始まる。無数の偶然によって導かれて一枚の写真ができあがる。
 しかし、写真がそこで完成したと考えるのは早計である。フィルムの時代であれば、その後、フィルム現像、引き伸ばしという工程が待っている。デジタル写真であっても、フォトショップでの画質調整作業がある。そこでもいくつかの偶然が作用する。
 現像液に浸してみなければ結果がわからないアナログ写真のほうが、偶然によるぶれ幅が大きい。昨日気づいたのは、デジタル写真の黎明期も偶然による不確定要素が大きかったということである。機器の性能が低いがゆえに、正確に画像が再現できていない。その分、別な何かが写り込んでいるように思える。
 比較にはならないが、1820~30年代、ニエプスやダゲールらが写真術を生み出したときも、これに少しだけ近い。再現性が低かったがゆえに、写真に「別な何か」が写り込んでいるように感じられるのだ。その後、写真術は次第に改良が進んでいくのだが、精密に描写できるようになっても、やはり「別な何か」が存在している。ここに写真のおもしろさがある。
 今日のデジタルカメラは昔の4×5に匹敵するのではないか思えるほど、現実を精密に描写することができる。2021年に撮った自分の写真を2040年頃になって見てみたら、果たして「軽い驚き」とともに、大昔の写真のように思えるのだろうか? 20年後のことはわからないが、どんなに精緻に描写することができたとしても、写真における神秘性は不変なのではないかと思っている。

〒080-0046 北海道帯広市西16条北1丁目25
TEL.0155-34-1281 FAX.0155-34-1287

高原淳写真的業務日誌