
おはようございます。
午前8時20分、出社。8時半、しゅん編集部に向けて来期の説明会を行う。10時帰宅。昼は帯広ロータリークラブの例会にZOOMで参加。午後、ようやくスロウの原稿を書き始める。3000字ほど進んだ。5時半夕食。6時半、中小企業家同友会とかち支部臨時四役会。ZOOMでの開催。8時終了。
「昔の人はすごい」は本当か?
「昔の人は偉かった」みたいな話、最近聞かないような気がする。それはどうしてなのか、ふと気になった。
ひとつには、「昔」の捉え方が変わったからではなかろうか。ときどきビックリするのは、20代の人がほんの数年前の出来事を振り返って「昔は……」と話し出すことである。僕も20代の頃はそうだったのかもしれない。20代の人にとって10年前はたぶん大昔のことなのだろう。
驚くほど世の中の変化が急速に進んでいる。「十年一昔」どころではない。「一年一昔」くらいのスピードで世の中が変わっている。去年の今頃考えていたことは、すでに古い考えになってしまっている。
一年一昔。だが、一人ひとりの人間が10倍速く年をとるわけではない。1年前の自分は、外形的には今とさほど変わりはない(僕は若干太ったが)。周囲の人々も同様だ。したがって、1年前の人たちを「偉かった」と賛美することは、特殊な状況でない限りあり得ないだろう。もしかすると、「10年前の我が社の人たちは偉かった」と言うことはあるかもしれない。だが、昔の人が使っていた「昔の人は偉かった」とは意味合いがずいぶん異なっているはずだ。
さらに考えてみる。「昔の人はすごい」と思うことは確かにある。そして、僕から見た「昔の人」も、「昔の人はすごい」と言っていた。今よりも、はるかに頻繁に「昔の人は……」という言葉を使っていた。これはどういうことなのか? 僕の子供の頃からの疑問のひとつだ。
昔の人たちの思考、言動、行動を、今の自分たちの価値観に照らし合わせて考えるから「昔の人はすごい」ということになるのだろう。僕はそう推察している。
僕の親世代の人たちは、よく「昔の人は言葉を知っていた」と話していたことを覚えている。その親世代の人たちは、僕から見るとずいぶん難解な言葉を駆使していた。若い世代になればなるほど「言葉を知らない人間」になっていくのか。僕の子供時代の疑問はここにあった。それから50年近く経ち、僕は「自分よりももっと言葉を知らない人間」を相手に仕事をしている。これは本当のことなのか?
当たり前のことなのだが、人類が退化しているわけではない。使う言葉の種類が違っているだけのことなのだろう。論語に出てくる言葉は使わなくなったが、外来語がやたら増えた。その中には昔の人にはちんぷんかんぷんと思われる難解な言葉があるだろう。外来語の普及初期段階は特に困る。サスティナブルとかダイバーシティと言われてもよくわからず、とりあえずネットで調べるところから始めなければならない。
極めつけは、英字3文字の略称だ。SPDといえばドイツ社会民主党の略称だが、PSDとなるとフォトショップのファイル形式。紛らわしいものや、同じ略称でも複数の意味があったりする。これを使い分ける現代人のほうがすごいと思うことがある。
「昔の人は歩いて旅をしたから偉い」みたいなことを言うことがあるかもしれないが、昔の人からすると「日帰りで東京出張に行くほうがすごい」ということになるだろう。
僕らは偶然「現代」に生きているわけだが、古代の人も当時の「現代」に生きていた。100年後の人も「現代」を生きることになる。昔の人がすごかったり、偉いわけではなく、どの時代にもすごい人、偉い人がいるだけの話。今の僕は、アプリ開発の話にすんなり付いていくことのできる20代の人たちがすごいと思ってしまう。Windows 3.1の時代に悪戦苦闘していた自分は何だったのか? 後世の人たちにすごいと思わせるものを何か一つ残さねば……。