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北海道の仕事と暮らし138 蒸発皿の記憶

北海道の仕事と暮らし138 蒸発皿の記憶

おはようございます。
 午前中は休日として過ごす。午後、3時間ほどパソコンに向かう。気に掛かっていることから順番に進めていく。2021年も最終週に突入した。仕事を完結させてから正月休みに入らねばならない。

加湿器の季節

秋と冬の境界線をどこに引くか。人によって基準は異なることと思います。「12月1日から」というのでは、味も素っ気もありません。自分の感じる季節感というものを持ちたいものです。
 最低気温がマイナス5度近くなり、「水道を落とした日から冬が始まる」という人もいるでしょう。僕の場合、水道を落とした日も基準のひとつですが、実はもう一つあります。「部屋の湿度が40%を下回るようになった日」。そこに冬の到来を感じます。
 低温と湿度低下。それによって、何となく手足がむずむずするようになってくる。皮膚が乾燥してかゆみの症状が出てくる。保湿クリームを使うようになると、いよいよ「冬」です。初期段階では皮膚の乾燥がやってくるのですが、そのまま何もせずにいると、次に訪れるのは鼻の粘膜の乾燥。これにより、鼻血が出ることがある。帯広にUターンしてしばらくたった頃、鼻血がたびたび出て、悪い病気にかかったのではないかと、心配になったほど。
 北海道の冬に加湿器は必需品といえます。これで湿度を45~55%に保つ。特に気にしているのは寝室の湿度ですね。40%を切ると鼻の粘膜が乾燥した状態になる。逆に、書斎はちょっと乾燥している状態のほうが快適に感じられます。コーヒーか紅茶を飲みながらパソコンに向かっているからでしょうか。
 考えてみると、海外では加湿器を見かける機会が少ないのではないかと思います。オーストラリアのような湿度の低い国(場所によって異なるでしょうが)でも、加湿器を見た記憶がありません。日本人は乾燥肌になりやすい体質なのでしょう。僕自身は、乾燥しているほうが快適に感じるのですが、40代後半あたりから乾燥肌を意識するようになりました。今では、加湿器+保湿クリームが欠かせません。
 子供の頃はどうだったのか。小学生の頃までは、ストーブの上に乗せていた蒸発皿かやかんで湿度低下を防いでいました。やかんのフタは開けておくのが鉄則ですね。学校のストーブには必ず大きな蒸発皿が乗っていました。我が家に加湿器が登場したのはたぶん1975年前後。中学生の頃でした。当時の僕は湿度に関して鈍感で、加湿器から恩恵を感じたことはありませんでした。
 湿度というものを強烈に意識したのは、大学に進学し、大阪で暮らすようになってからのこと。雨が降っていないのに蒸している。そんな感覚を日常的に味わうことになったのです。ちょっと油断すると、食べ物にカビが生える。その事実にもビックリしました。大阪暮らし1年目には、ありとあらゆる種類のカビを発生させていました。よく病気にならなかったものです。
 高温多湿な大阪で5年。大阪ほどではないが、やはり高温多湿な東京で15年。北海道から離れて合計20年。戻ってきてみると、乾燥に弱い体質になっていた……。と、ここまで書いて、今になって改めて思い出したことがあります。僕は子供の頃も冬になると皮膚が乾燥していた。ひび割れて、手や足から血を流していた。すっかり忘れていました。子供だったので、特に気にしていなかったのでしょう。出血するくらいカサカサになってからオロナインH軟膏を塗っていました。唇も乾燥しやすい部位の一つ。やはり出血することがあります。当時はリップクリームの存在を知らず、我が家ではゴマ油が使われていた(僕だけかもしれませんが)。今はさすがにゴマ油ではなく、近江兄弟社のメンタームを使っています。ゴマ油由来のリップクリームがあれば愛用したいところです。味は断然ゴマ油のほうがいい。
 昨日、我が家では例年よりも数週間遅れで加湿器を稼働させました。毎年この時期になると、学校の石炭ストーブと蒸発皿(たぶんブリキ製)の記憶がよみがえってきます。

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