おはようございます。
午前8時40分出社。会社で原稿を書こうと思った。「静かなところでなければ書けない」とずっと思い込んできたが、なぜか昨日は書けそうな気がしたのだった。2時間半で4500字ほど書く。悪くないペースだ。午後は自宅で書く。6800字まで進んだ。他に、スロウの校正等。6時半、帯広経営研究会新年総会。終了後、ZOOMでの懇談会。各会員、今年の抱負等を発表。10時頃終了。
「恵まれた環境」の落とし穴
今朝、M氏との会話の中で「スロウのみんなの原稿が素晴らしい」という話がありました。前回69号も素晴らしい出来映え。2号連続です。というよりも、みんな編集者として、書き手として、一皮むけたというべきでしょうか。
僕は自分の担当記事しか校正に目を通さないので、どのように素晴らしいのか、現段階ではわかりません。ふだんは文字を追わず、写真とデザインだけ見るようにしています。写真の中にも気になるものがありました。スタッフクレジットを見ると、「おおっ!」と一瞬驚きましたね。ついにこの境地に達したか。編集者自ら撮影するという機会が増えていることは知っていますが、写真のレベルがずいぶん上がっている。みんな自己完結型の記事作成になっていくのか? このレベルをずっと保つことができればすごいことになるはずです。
たぶん、今回の70号では、みんな追い詰められたのではないかと思います。いつも最後に入稿している僕が先頭グループ(?)にいたことが物語っている。他の業務との兼ね合いで負荷がかかった上、思わぬアクシデントもあったようです。逆説的になりますが、原稿を書く上では好条件が揃ったというべきでしょう。
恵まれた環境の中でのびのびと文章を書きたい。誰もがそのように思い描くわけですが、そうした環境の中では案外書けないものです。ここでいう「恵まれた環境」とは、「原稿のことだけ考えればよい」という状況のこと。そういう人は我が社にはいません。ただ、責任の重さには違いがあります。経験、役職によって、次第に責任は重くなっていく。必然的に記事づくり以外の仕事が増えていく。そして、編集業務とは関係のないところで悩みを抱えることとなる。
数年前の誰かの日報の中に、「今日は原稿に集中できる日、幸せ」みたいな感想が書かれていたことを思い出しました。みんな取材したい、原稿を書きたいと編集部に入ってくるわけですが、取材して原稿を書くには、それ以外の業務にも熱心に取り組まなければなりません。自分が引き受けた責任、苦労と比例するかのように、文章が味わい深いものとなっていくものです。
「単純に楽しい記事」があってもよいのですが、僕自身は「考えさせられる記事」「奥深い味わいを感じる記事」を読みたいと思っています。これは「自分を安全な場所に置いた状態」で書くことはできない。たとえ取材能力に長けていたとしても、執筆する段階では自分の人生態度や今の心の状態が問われることになるでしょう。自分を安全圏に置いた状態で文章力を駆使して書こうとすると、中身の薄い文章となってしまいます。これは編集者、ライターにとって一種の落とし穴といえます。そこにはまって、抜けられなくなった人もいます。
編集経験が積み重ねられていくと、自分の過去の記事や作品が増えていくことになります。原稿作成以外の業務が増えるとともに、自分の過去記事からプレッシャーを感じる場面も出てきそうです。過去の自分との競争。今の自分の作品が常に最高であると言えるかどうか。「この頃はよかった」と過去を振り返るような自分にはなりたくないものです。常に「今が一番」と言える状態を保つには、どうすればよいのか。自分を高めるための何かを継続的に行っているかどうか。あるいは連続的に何かに挑戦しているかどうか。このあたりにあるのではないかと僕は思っています。