高原淳写真的業務日誌 > 写真論 > 写真論16 写真を見る力

写真論16 写真を見る力

写真論16 写真を見る力

おはようございます。
 午前中は郵便局と買い物へ。午後、異様に眠くなり、長めの昼寝。これがいけない。どんよりした状態で2時間だけパソコンに向かう。本来の仕事ができぬまま、いくつかの用事を片付ける。

「裾野」から「日常」へ

一昨日、製本されたばかりのスロウ70号が手に入りました。まだ本文は読んでいません。素晴らしい出来映えらしい。体調万全のとき読むことにします。一昨日チェックしたのは写真。まず、全ページをパラパラ開いて、写真や印刷の具合を確かめる。そして、誰がどんな写真を撮っているのかを知る。
 近年見られる傾向が、より広がっていることに気づきました。僕が注目するのはスタッフクレジット。編集者自ら撮影していたり、本来フォトグラファーでも編集者でもない人が撮影していたりするのです。それで本全体の写真のレベルが低下しているのかというと、そのようなことはありません。逆におもしろい写真が増えている。プロのフォトグラファーとしては内心穏やかではいられません。しかし、スロウの発行人としては好ましい現象と言えるでしょう。
 従来通り、編集者とフォトグラファーの組み合わせで取材するほうがよい場合と、編集者自ら撮影するほうがよい場合があります。自己完結型だと思い通りの記事をつくりやすい。しかし、フォトグラファーには写真の専門家ならではの視点と技術がありますから、分業体制のほうがよい結果を生むケースも当然ある。この見極めができると、全体として誌面の質が向上するに違いありません。
 今回驚いたのは、僕にはこのような写真は撮れないだろうな……と思うような写真を編集者が撮っていたこと。空間の捉え方が並ではない。フレーミングには甘さが見られるが、空間に自分をなじませているから、フレーミングの緩さも写真の味のように思えてくる。そのような写真を何点か発見しました。
 デジタルカメラの時代に入り、写真の裾野が広がったわけですが、スマホの普及以降は「裾野」以上のものがあります。あらゆる人にとって、写真を撮ることは日常になった。記念写真、記録写真としてではなく、写真で何かを表現することが当たり前の日常になったのです。インスタなどSNS上で公開するのも簡単。いわば、誰もがネット上で個展を開催できる時代。デジカメ以前、インターネット以前には考えられなかったようなことが今は当然のようにできている。
 撮る能力、表現する能力は格段に高まっています。僕が危惧しているのは、「写真を見る能力」ですね。撮影に関しては、さまざまな場で技術を学んだり、調べたりすることができる。その上、カメラや画像処理ソフトの機能も格段に高まっています。その一方、写真の見方、解釈の仕方について学んでいる人は少ない。写真は一瞬にして、おもしろい・つまらない、美しい・美しくない、センスがよい・悪い……といった具合に判別できてしまうものです。このため、見方や解釈の仕方を学ぶ必要はない。そう考えるのももっともなこと。しかし、写真は他の表現手段と同様、奥の深いものでもあります。知れば知るほど、写真の見方が変わってくる。
 写真の見方、解釈の仕方を知れば、これまで何となくスルーしていた作品をもっと楽しむことができるはず。僕は、写真表現の全盛期は1950~70年代にあると思っています。この頃、写真表現はひとつの頂点を究めた。銀塩写真だから素晴らしいと感じているわけではありません。パソコンのディスプレイに映し出しても感じるものがある。デジタルネイティブの人たちはこの頃の写真をどのように見るのか。そもそも、存在すら知られていない可能性があります。写真の発明からもうすぐ200年。写真の歴史と名作の数々をもっと広く伝えていく必要がありますね。

〒080-0046 北海道帯広市西16条北1丁目25
TEL.0155-34-1281 FAX.0155-34-1287

高原淳写真的業務日誌