おはようございます。
久しぶりかな? 日常業務に専念できた日。「写真家的文章作成技法」が校了しました。あとは完成を待つのみ。
当社新入社員I氏によるツイッターの投稿が反響を呼んでいます。北海道新聞には「帯広の地図に北海道発見! ツイッター転載5万件、いいね!13万件」との記事が。反響を呼ぶ情報、そしてどのように情報が拡散されるのか。興味深いものがありますね。
誰もが避けて通れない道
日常行われる地道な情報発信活動としては、教育と啓蒙ということになるでしょう。ずいぶん硬い言葉を使ってしまいました。僕は教育者でも啓蒙家でもありません。けれども、40代半ば頃から教育という道は避けられないだろうと考えるようになっていきました。
本当は写真の制作や雑誌づくりに邁進したいと考えています。あまり複雑な活動を増やしたくはない。けれども、自分の人生が永遠に続くわけではないということもわかっています。必ず後進に道を譲るときがやってくる。「あとは勝手にやってください」と言うわけにはいかない……。
自分たちが続けてきたこと。そのやり方は変わっていくのが自然ではありますが、根底に流れている精神や事業の目的は受け継いでもらいたい。そんな気持ちでいます。
僕がしっかり時間を設けて開催している教育活動は、新入社員研修、次世代幹部養成塾、経営発表大会でのセミナーの3つ。これ以上増やしてしまうと、業務に支障を来すことになるのではないかと思っています。ですから、僕の教育活動に負担に感じている人は少ないでしょう。
ただ、成長意欲の高い人の場合は、この3つだけでは明らかに「足りない」。おそらく、不足分を読書、異業種交流、講演やセミナーへの参加、自主的な勉強会といった形で補っていることと思います。他にも自分を成長させる方法はあるでしょう。やり方はさまざま。欠かせないのは「自分で自分を成長させる」と意思決定することです。
ところが、そう簡単にはいかないものなんですね。多くの人は、真面目に熱心に仕事に取り組めば、自分を成長させることができるはずだ……と考えてしまうんです。確かにそれも可能かもしれません。ただし、その場合は「真面目で熱心」というレベルではいけない。「超真面目で一心不乱」という状況をつくる必要がある。これは今の時代ではなかなかできることではありません。働き方改革も進めねばなりませんから、会社としても推奨できる方法ではない。
そんなわけで、教育の機会を増やすということが、多くの企業の重要課題となっていることでしょう。教育を怠ると、人質(じんしつ。「ひとじち」ではありません)が高まっていかない。
我が社には教育理念があります。
「対等な人間関係のもと、個性・潜在能力の開発と、自己成長・自己実現をバックアップ」
自社にとって都合のよい人材をつくりだそう……という気持ちは持っていません。みんな「なりたい自分」のイメージを持っているはず。ですから、なりたい自分に近づくための活動に熱心になるべきだと僕は考えています。
それなのに、目の前の仕事だけに全エネルギーを使い果たしてしまう人もいれば、人生ビジョンとは無関係な娯楽にエネルギーを吸い取られる人もいる。適正レベルであれば仕事も娯楽も問題ありません。けれども、自分を成長させる時間を確保することが、10年後、20年後の自分の実力を決定的に左右することとなる。
働き方改革によって、ほとんどの人は自由に使うことのできる時間が増えたのではないかと思います。浮いた時間をどのようにして使うか? この使い方によって、その人の将来が決まってくる。そう考えると、今後予想されるのは……。このように書いてよいのでしょうか? 僕としてはこの予想は外れてほしいと願っていますが、「人材の二極化」でしょう。自分で自分を成長させ続ける人と、刹那的な生き方をする人とに分かれていく。我が社にとっては、二極化させないことが教育課題のひとつとなる。
そこでは啓蒙活動が鍵を握るのではないかと思っています。教育と啓蒙。両者の言葉の違いはちょっとわかりにくいわけですが、僕の捉え方では啓蒙のほうが「導く」という意味合いが強いように感じられます。教育は啓蒙よりも計画的でシステム化されているようなもの。というわけで、教育の前に啓蒙が必要なのではなかろうか?
僕の啓蒙活動は、社内報が中心となっています。ときには本ブログが啓蒙活動になることもある。また、朝礼での話(月1回)も啓蒙という意味合いが強い。
ただ、伝え方を注意しないとメッセージが正しく伝わっていかないものです。僕の言葉の使い方はまだ十分洗練されているとはいえません。気をつけてはいても、意図しない受け止められ方をすることがある。ここが啓蒙活動の難しいところではないかと思います。教育活動の場合はメッセージを伝え間違えても、後から修正可能な場合が多い。けれども、啓蒙の場合、誤った方向へ導いてしまうと、修正不可能になることもある。
1対1で伝える場合には、その人の頭の中にある辞書をイメージしながら言葉を発しなければなりません。日本語を使っているからといっても、同じ辞書を使っているわけではない。世代間でも大きく違うし、個人差も大きい。
ですから、啓蒙活動はできるだけ大勢に向けて行われるべきだというのが僕の考えです。我が社の場合は「出版」というのも啓蒙活動の一部となっていることでしょう。
日頃の取材、執筆活動の中では啓蒙という意識はほとんどないかもしれません。けれども、「このように書くと読み手はどう感じるだろうか?」と考えているはずです。記事を書くと、読者に何かしらの影響を及ぼすこととなる。ひとつの記事が誰かを「導く」可能性もあるのです。
僕の仕事も我が社の事業活動も、教育や啓蒙に関連した活動なのだと自覚しなければなりません。そして、あらゆる産業にも教育、啓蒙活動が含まれているに違いない。その質と量を充実させた会社が成長・発展していくことになるのだと思います。