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写真論19 写真と感性

写真論19 写真と感性

おはようございます。
 早朝にひと仕事。6時過ぎにデータを送る。昨日に続き、10時からウェビナーを受講する。目が限界に近い。だが、中身が濃い。たとえ頭痛に至ったとしても知っておくべき情報だと思った。午後6時終了。7時、音更のスノーフレークへ。中小企業家同友会とかち支部「激友会」。同友会会員とゲストとの交流。話題提供者は、すずらん動物病院院長の栗栖亜矢佳氏と(有)大坂林業代表取締役の松村幹了氏。ともに移住者。事業活動もユニークだが、人生経験の話も同じくらい興味深い。9時半帰宅。

感性より認識力

たいていの人……と言ってよいかわかりませんが、多くの人は「写真は感性で撮るもの」と思っているのではないでしょうか? 僕も一時期、そのように認識していました。だから、自分には美を見いだすことのできる感性があるに違いない。そのように錯覚していたんですね。
 もちろん、写真を撮る上で感性は欠かせないもの。おもしろい、美しい、不思議に感じる。そうした感覚が鈍い人にはたぶん写真は撮れないはず。ですが、人並み外れた感性が必要というわけではないのではないか? 最近、そう思うようになりました。なぜなら、感性の鋭い、または豊かな感性を持つ人が僕のまわりには大勢いるからです。
 また、一部の人たちは「写真には技術が必要」と思っていることでしょう。これも確かに必要ではあるのですが、デジカメの時代になってから必須ではなくなってきました。スマホでもきれいに写真が撮れるし、撮影した後からでも、かなりのところリカバリーできる。したがって、初めてカメラを手にした人でも素晴らしい作品を生み出す可能性がある。
 並の感性でよくて技術が不要となると、いったいどこにフォトグラファーの存在価値があるのか? ときどき考えてしまいますね。
 僕の現時点での結論としては、感性よりも認識力。そう思っています。認識力も感性の一部と捉えるなら、やはり感性が欠かせないということになるでしょう。でも、僕の考える認識力はもう少し理性的なもの。自分の目の前にこのような光景が広がっている。もう2メートル左に移動すると、このように見えるはずだ……といったことを僕はしょっちゅう考えているのです。これはあまり感性的とは言えません。絶えず計算している自分がいる。
 考えてみると、高校生の頃から、頭の中で自分の立ち位置(つまりカメラのポジション)について考え、被写体を的確に認識しようとしていました。これは僕に限らず、多くのフォトグラファーが行っていることではないかと思います。無心になってシャッターを切る……ということはたぶんない。無心になろうとしながら、あれこれ勝手に計算が働いていることが多いのではなかろうか?
 目の前の広がる風景をどのように解釈するのか。そこから何を見いだすのか。そこに写真のおもしろみがあります。したがって、被写体との共同作業といえるかもしれません。あるいは、偶然に恵まれたラッキーな撮影者というべきでしょうか。ただ、目に映ったものの中から、意味や価値、秩序といったものを認識できてなければ写真を撮ることはできません。認識し、解釈したものを的確に記録する技術。それは写真を撮る上で必須のスキルと言えるものです。
 それにしても「感性」という言葉はつかみどころのないものだと感じることがあります。感性論哲学を学ぶと、少し「感性」についてわかったような気持ちになるのですが、写真における「感性」となると、とたんに頼りないもののように感じてしまいます。目の前の風景を見て、自分は何かを感じている。それは感性の働きだと思うのですが、写真に収め、自分の作品とするには理性の協力が欠かせません。
 「問題を感じるのは感性で、答を出すのは理性」。感性論哲学の教えは、果たして写真撮影にも当てはまるのでしょうか? 

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