
おはようございます。
朝は事務的作業。11時出発。札幌へ。楽勝で間に合うはずなのに、案外時間がかかった。道を間違えたようだ。K氏をピックアップし取材先へ。午後2時半、「北海道 来たるべき未来を見つめて」の取材。前半は撮影。取材は後半の1時間。時間はさほどない。僕は話を聴くことに徹する。ICレコーダーとK氏のメモが頼りだ。4時半、取材終了。4時50分、創世スクエアでミーティング。8時50分帰宅。
「電子書籍時代のシンプル文章術」は、今日から第3章。ひとつの小見出しに対して800字というペースを守ることができるかどうか。ひとつわかったのは「例文を書くとすぐに字数がオーバーする」ということだった。800字にはとらわれないようにしよう。
第3章 中級編・カジュアル文章術
主観と客観
ある大学生と話していて少し驚いたことがあります。文章を書く際、「『私は』『僕は』を使ってはいけない」というのです。そのような文章を書くのは稚拙であると教えられたらしい。一瞬、確かにそのような側面があるかもしれないと思いました。「私は」と書かなくとも「私」の存在を示すことは可能でしょう。
しかし、0.5秒後、それでよいのか、「少なくとも僕は違う」と思いましたね。「私」「僕」を隠さねばならない理由はありません。英語であれば「I」とか「We」とか、主語を最初に書く。「誰が」が大事だからです。
誰がそのように主張しているのか。著者である自分なのか、自分の知人なのか、第三者なのか。ここを明確にせぬまま書いていくと、わかりにくい文章になりやすい。稚拙かどうかは別として、誤解を招かない文章を書くことが著者には求められます。
かといって、自分や他人の主張、考えばかりが飛び交う文章を読み続けると、次第に食傷気味になっていくものです。「私は」が頻繁に登場すると、「この人、自己中心的だな」と思われたりする。
自分はこう考える。そうした主観を表明することは、本の執筆に必要なことと思いますが、同時に「客観的事実」や「物事を客観視する自分」を表現することも、主観表現と同じくらい大切です。自分の主張の裏付けとなるデータを示す。あるいはある物事を第三者的視点から描写してみる。そのように配慮すると、独りよがりではない、信憑性のある文章となっていくものです。
主観にも客観にも偏るべきではない。僕はそう考えています。
主観と客観のバランスは、自分が著したいと思う本のジャンル、テーマによって異なってきます。エッセイや自分史であれば主観的になりますし、学術書や実用書なら客観的になるでしょう。ビジネス書はどちらもアリですね。
ただ、僕の考えるところ、客観性が求められる文章であったとしても、その中にさりげなく「自分らしさ」を盛り込むべきでしょう。事実描写の中に自分の存在をにじませる。僕もそのようにしながら「客観的文章」を書くことがあります。
100%客観描写することをよしとしたならば、数年後にはAIが著者になってしまうかもしれません。読者は人間の書く文章を読みたいと思っている。そう信じたいですね。
