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写真論20 エキヴァレント

写真論20 エキヴァレント

おはようございます。
 早朝、2400字ほどの原稿を1本書き上げる。調子は悪くない。そう思って、スロウの原稿執筆準備に取りかかる。僕の場合、準備は部屋の片付けから始まる。さらに、気に掛かっている仕事をいくつか片付ける。原稿執筆は午後から。そう思ったら、そのようにはならず、別な用事が浮上する。来月オープン予定の店舗でカウンターの高さを確認。帰りに買い物。帰宅すると執筆モードではなくなっていた。「記憶の中の風景」の写真選びに切り替える。選び終わった時点で仕事を終える。
 今朝の僕はぼんやりしている。写真について考えながら目覚めようと思う。

撮影者と鑑賞者は同じ

新入社員研修特別講義「写真を見る愉しみ」の中で、最後に「エキヴァレント(等価)」という話をしました。「エキヴァレント」は近代写真の父とされるアルフレッド・スティーグリッツの作品群のこと。空だけを撮った、何の変哲もないかのように見える写真。僕は学生時代にオリジナルプリントを見る機会がありました。4×5密着。小作品だったと記憶しています。
 エキヴァレントという言葉の意味するところは、僕にはよくわかりません。ただ、その頃から「撮影者と鑑賞者は同じ」といった考えを持つようになっていました。その後、「教える人と教えられる人は同じ」という考えにもつながっていきました。たぶん、エキヴァレントは僕にとって重要な意味を持つ言葉なのでしょう。
 写真家は自分の視覚体験と照合しながら、何らかの被写体を撮影する。視覚体験は人によって異なるため、同じ場所で誰かと一緒に撮影しても同じ写真になることはありません。そうして、一枚の写真作品ができあがる。それを撮影者以外の誰かが鑑賞する。鑑賞者は写真を見ながら、自分の視覚体験と照合する。そして、何らかのイメージを頭に浮かべる。あるいは、過去の記憶を呼び覚ます。写真を鑑賞するという行為は、写真家における撮影とほぼ同じだと思うのです。
 世の中に偉大な写真家が存在する(またはかつて存在した)ように、偉大な写真鑑賞者も同じように存在するのではないか? 僕はそう考えています。そうした人は、案外写真評論家にはなっておらず、ひっそりと写真を鑑賞しながら、豊かな内面世界を築き上げているのではなないでしょうか。
 なぜそう考えるのか? それは僕が「写真を言葉に置き換えることはできない」と考えているため。言葉にすればするほど、写真本来の持つ魅力から遠ざかっていきそうな気がしてなりません。だから、ずっと長い間、僕は自分の写真について説明することはありませんでした(技術的説明はしますが)。関係あるようなないような話でお茶を濁すことが多かった。
 たぶん、豊かな感性を持つ人は、何の変哲もない写真から何かを発見したり、自身の人生経験と照合して、写真を深く味わっていることでしょう。それは写真を撮り続けることと同じくらい重要な仕事のように思えます。
 撮影者と鑑賞者は同じ。これは他のジャンルにも当てはまります。たとえば、雑誌「スロウ」の読者の中には、編集者の想像を超越するほど深く読んでいる人がいます。そのような読者と話す機会があると、教えられることが実に多い。作り手の気づかなかったところを伝えてくれることがあるのです。
 僕の写真についても、まったく意識していなかった側面について気づかせてくれることがあります。自分の気づかなかったものの見方、考え方を教えられる。エキヴァレントという価値観を持つことで、人は成長し続けることができるのではないかと考えています。

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