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写真論22 意識と無意識

写真論22 意識と無意識

おはようございます。
 午前7時半、SLOW livingへ。8時出社。「記憶の中の風景」の写真選び。続いて、画質調整。インデザインに配置。最後に短い原稿を書く。午後1時頃完成。データを送る。昼は外食。買い物。3時20分帰宅。3時50分、帯広市民文化ホールへ。帯広商工会議所100周年記念式典。1世紀の歴史がわかりやすくまとめられていた。

将来のための「今」

僕には「思い通りにならないのが思い通り」という人生観があります。このため、気をつけないが流されやすいタイプ。油断すると、妥協的になったり、不本意な結果に対して自己正当化するようなことがある。こうなると、企業経営者として好ましくない傾向が現れてくるため、十分注意せねばなりません。
 フォトグラファーとしてはどうか? 思い通りにならないのは、写真では当たり前なんですね。思い通りにコントロールしようとすること自体、不自然なことではないか。僕はそう考えています。思い通りにならないところに写真のおもしろさがあるわけです。
 撮影した瞬間、「これは素晴らしい写真が撮れた」と喜ぶことがあります。それからフィルム現像、プリントをしてみると、平凡な写真だったりする。僕の写真人生の前半では、そのようなことがよく起こりました。僕の人生経験の未熟さゆえなのか、それがフィルム写真時代の特性なのかはわかりません。デジタルカメラになってからは、撮影直後2、3秒、モニターに結果が表示されます。思い通りかどうか、わかってしまう。ここがデジタルのよさでもあり、つまらなさでもあります。
 それでも、やはり写真とは神秘的なものであるように僕には感じられるのです。というのも、平凡な写真、取るに足らない写真だと思っていたものが、数日、数ヵ月、数年たってみると魅力的に感じられたりするのです。昨日選んだ写真の中にも、そうしたものがありました。撮影時、無意識のレベルではよさに気づいていた。自分の顕在意識として認識するまで、タイムラグがあったのでしょう。
 このように写真を「再発見」するたびに、僕は意識と無意識について考えさせられます。
 写真は「創作」というよりも「認識」するための活動といえます。一体、フォトグラファーはいつ認識するのでしょう? 撮影時には十分認識していなかったものが、数ヵ月、数年たって、機が熟したときに認識する。そのように思えます。しかし、無意識レベルの自分は最初からちゃんと気づいていた。この事実が重要ではないでしょうか。
 そう考えると、もしかしたら現在意識が認識しないまま、一生を終えてしまい、日の目を見ない作品もたくさんあるのかもしれません。自分の作品を再発見するための活動を熱心に行う必要があるでしょう。
 無意識と意識のタイムラグ。一部、非常に長いものがあります。僕の場合、30数年前の作品からある。それだけ長期間埋もれていたわけですから、一瞬見ただけではよさがわからない。ありきたりな風景の中に謎があり、考えさせられる何かがある。
 僕らが普段行っている仕事にも、そのようなものがいくつも存在するのではないかと思います。ありきたりな仕事。その中に、自分にとって重要な意味がある。10年、20年たってから、その意味に気づくようなもの。本当はリアルタイムに気づくことができるのがベスト。しかし、そこまで賢い人は少ない。多くの場合、本当の意味を理解しないまま、夢中で働く、淡々と働く、義務的に働く、あるいは嫌々働くわけです。「今」がいかに貴重なものか、もっと自覚せねばなりませんね。

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