おはようございます。
朝6時50分出社。涼しいうちにひと仕事と思ったが、さほど涼しさは感じない。細々とした仕事を片付けているうちに時間が経過し、時間のかかる仕事に着手しないまま昼を迎えてしまった。11時からはSLOW livingでインスタライブが行われた。12時過ぎ帰宅。1時半、蕎麦を食べに行く。帰りに買い物。4時過ぎ帰宅。いくつか用事を済ませ、枝豆とパイナップルを食べる。この日、最高気温は34度。今週、どのように集中力を維持するか考える。
写真とコーヒーゼリー
インスタライブで僕は「ありきたりなコーヒーゼリー」の話をすることになりました。当日朝、頼まれた話なので全く準備なし。ありきたりなコーヒーゼリーですから、ありきたりな話をするだけ。
僕は、自分の作る商品に限れば、「特別な」とか「こだわりの」という表現は避けようと思っています。これはよく考えてみると、僕の写真に対する姿勢から来ているような気がします。僕は特別な風景とか、絶景といったものに執着していない。目の前に絶景があればもちろん写真を撮るのですが、絶景を求めて世界を旅しようとは考えていません。むしろ、日常のありふれた景色の中に特別と思えるものがあればよい。そう考えているのです。
したがって、逆説的な表現になりますが、ありきたりな風景、ありきたりなコーヒーゼリーの中に特別な味わいがある。それは誰もが感じるものではなく、求めているからこそ感じることのできる特別なもの。絶景に出合えば、100人中100人近くの人が感動するでしょう。僕もたぶん感動する。ありきたりな風景の場合は、数%くらいでしょうか。そこに価値を見いだす人はほとんどいない。感動すること自体、特別なことのように思えてくる。
写真とはそういうものではないか? なかなか見に行くことのできない絶景を写真作品として鑑賞し、その場へ行ったような気持ちになる。それは紛れもなく写真の役割のひとつ。反対に、日常のありふれた風景の中に特別な何かを見いだし、「特別な何か」が身のまわりに存在することを明らかにする。これも写真表現の目指すべきことのひとつであると僕は考えています。
コーヒーゼリーも然り。特別な製法は僕には不要であり、良質なコーヒーがあれば、ありきたりだけれどおいしいものとなる。食べ物には、「そういえばこういう味だったな」という安心感が必要なのではないか。添加物がいろいろ入って、「かつてのありきたりな漬物」が手に入りにくくなっています。自分で作るしかありません。簡単に作ることのできるコーヒーゼリーくらいは、余計なものを入れず「コーヒー」「糖蜜」「ゼラチン」だけで作りたい。そこに「ありきたり」というネーミングの由来があります。たぶん、僕のありきたりな撮影姿勢と共通するものがあるのではないかと思います。