
おはようございます。
昨日は移動中ほとんど眠っていました。運転はふたりのI氏に頼りっきり。気づいたら留辺蘂、次に気づいたら知床といった具合。撮影は店内、森の中、店内、館内の順。強行スケジュールだったため、昼食はドライブスルーでハンバーガー。一日の中でジャンクフードと自然食を食べることがある。これが取材の実情でもあります。移動距離は820キロでした。
食べ物と健康
まあ、それでも僕の食生活はずいぶん改善されてきたと思っています。東京時代から料理ページの撮影が仕事のひとつでしたが、健康によい料理をゆっくりいただくということは滅多にありませんでした。フィルムカメラの時代でしたから、ほとんど毎日のように現像所へ。2往復する日も多かった。かなりの撮影量でしたから、配達してもらえるよう依頼しましたが、西荻窪は圏外だったようです。毎回首都高の通行料を払って現像通いをしていました。
というわけで、車に乗っている時間がやけに長いという日々が続いていました。仕事はハードだったので、必然的に車内で食事をすることが多かった。ひどいときには1日3食すべて車内食。車内ではなく社内だったらよかったのですが、僕らにとってはささやかな時短でした。ジャンクフード依存率が一番高かったのは1993年前後かな。毎月すごいページ数をこなしていましたから。
人間の体は食べ物でできているわけです。ということは何を食べてきたかが今現在の自分の健康と密接に関係している。疑いようのない事実といえるでしょう。ですが、そうも言ってはおられないような一時期が人生にはある。そのとき、健康を取るか仕事を取るか? 僕はほとんど迷わず「仕事」を選択してきました。それが正しかったのかどうかわかりません。今も、正直に言うとわからない。
人生の中で今まさにそのような密度の濃い日々を送っているという人もいると思います。年代で言うと、20代後半から30代前半にかけての人でしょうか。これは自分で選び取るしかありません。普通に考えると健康が何より大切。
けれども、少しだけ目をつぶって一心不乱に働くべきときもある。まあ、今は働き方改革との兼ね合いがありますから、一心不乱に働いても、すぐに埋め合わせることができるでしょう。会社員にとっては働きやすい時代になった。一方、フリーランスの人は自分で自由に仕事時間を決めることができますから、僕の30代前半のときのような働き方をしている人も多いでしょう。それが10年後、20年後にどうなっていくのか? 気になりますね。
ジャンクフードには麻薬的な魅力があって、今のような生活を送っていても、ときどき摂取したくなってくるものです。僕の場合、ハンバーガーは月1回ペースでしょうか。決まってスロウの取材で遠出しているとき。考えてみると、車の中以外でハンバーガーを食べたという記憶がありません。したがって、ドライブスルー以外で購入したこともほとんどない。不思議な食べ物です。
今もたまに食べるジャンクフードですが、たぶん今後数年をかけて自分の食生活から消えていくことになるでしょう。というのも、スロウの取材に撮影者として同行すると、「食べ物と健康」についての情報がどんどん増えていくのです。そのたびに、親からもらった大事な体なのに、自分はなんて罪深いことをしているのだろう……と考えてしまうことになります。
昨日も、食べ終わった直後にそう考えていました。おいしいのに後悔する。ここに魔性のようなものを感じる。この闘いに勝つにはおいしくて体によいものを次々と手に入れていかねばなりません。
方法はいたってシンプル。体によいものがおいしいと思えるように、味覚を改善していくことが重要といえるでしょう。僕はもともと素材第一主義的傾向を強く持っていますから、素材のよさを損なわないような味付けの食べ物を優先的に食べていけばよいということになります。
そういえば、火曜日に行われた料理撮影がそんな感じでした。えりも短角牛と松山農場(美深)のラム。夢のような組合せ。撮影後、これに松前原口吉川商店(松前)の松前さくら塩やコーヒーソルトを少しだけ振って食べる。最高ですね。長年ジャンクフードを食べ続けてきた僕の舌にもハッキリわかるおいしさ。このあたりを切り口に味覚改革を進めていかねばなりません。
学び続ければ自分の脳みそが改革されていくように、よいものを食べ続ければ味覚も改革されていく。学び続けると仕事力や人間力に好影響を与える。同様に、よいものを食べ続けると健康面に好影響を及ぼすことになる。とても簡単なこと。ですが、つい目先の仕事に追われ、健康を後回しにしてしまう傾向がある。僕の場合はここがひとつの課題。その最たるものが一昨日の完徹でした。もっと生産性を高めなければなりません。
そこで、ふと思い出しました。
某出版社のSさんが医者から言われたそうです。「おいしいお酒を少量飲みなさい」。Sさんはアルコール依存症で、コーヒーカップを持つ手が震えているのを目撃したことがあります。その言葉を聞いてから25年くらいたちますが、今それを実行しているかどうかはわかりません。
ただ、僕にはなぜかこの「少量」という言葉が耳に残っていて、今もときどき頭に浮かぶのです。日頃、食べ過ぎ、飲み過ぎなのでしょう。かつてに比べると、食べる量も飲む量も1/3以下に減っているはず。もっと減らせということかもしれません。
この考えを発展させていくと、仕事量も1/3以下に減らすべきなのでしょう。この場合は「おいしい仕事」というわけにはいきません。「付加価値の高い仕事」にもっとシフトさせていかねば。仕事も食べ物も飲み物もすべてつながっているような気がします。