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写真論27 自分の分身

写真論27 自分の分身

午前8時15分出社。10時、3階スタジオで商品撮影。午後4時来客。自費出版の話。4時幹部会議。6時半帰宅。(投稿が一日遅れてしまいました)

カメラを神聖視する傾向

会社のスタジオで撮影するのは何年ぶりだろう? 10年近く、ほとんどの撮影は自宅で行ってきた。ずいぶん勝手が違う。コメットのストロボを使うのも数年ぶり。というより、ふだん僕はストロボをまったく使わなくなってしまった。LEDライトで十分なのだ。
 あらかじめセットされていたライティングも、僕の撮り方とは異なっていた。今回、フォトグラファーのS氏が病欠のため僕が撮ることになったのだが、なかなか興味深いものがある。僕との撮り方の違いもさることながら、おもしろい工夫の跡が見られた。自作のレフ板は使い勝手がよい。僕もまねてみたいと思った。
 ストロボでもLEDでも不自由なことはない。LEDは見た目でライティングの具合がはっきりわかるというメリットがある。会社のスタジオのストロボはなんとモデリングランプが外されていた。頭の中でライティングをイメージして撮影することとなる。たまたまモデリングが切れてしまったのか、モデリングは不要と思ったのか。実際、モデリングなしで撮ってみたが、別段困るようなことはなかった。
 スタジオ撮影はデジカメの時代になってからビックリするほど容易なものとなっている。ポラロイドも不要となった。20年前、デジカメのモニターが小さかった頃は、ノートパソコンに写真を映して確認することがあった。今はそのような必要はほとんどない。今の時代、プロとアマの違いがあるとすれば、それはライティング技術だけだろう(商品撮影の場合)。
 ちょっとハラハラするのは、「画面を見せて」と編集者がカメラを持ちたがることだ。昨日もそうだが、かなり頻繁にこのようなシチュエーションがやってくる。フィルム時代にはなかったこと。カメラは自分の分身でもあるため、危なっかしい持ち方をされると本当にハラハラする。昨日はそのようなことはなかったが、ごくまれに心配になる持ち方をする人がいる。今のところ我が社の中に心配な人はいない。
 カメラはあくまでも道具ではあるのだが、僕の場合、カメラを神聖視する傾向があるようだ。学生の頃から、他人にはカメラを触らせないようなところがあった。社会人になって、人並みになってはいるが、それでも少し神経質なところがある。30代前半までは、自分のカメラを仕事用と作品用とに分けていて、作品用カメラでは仕事の写真はなるべく撮らないようにしていた。今は仕事=作品と思えるようになってきたため、複数のカメラを使い分ける必要はなくなった。
 ストロボや三脚など、カメラ以外の機材に特別な感情を抱くことはない。カメラだけは別だ。だから、カメラを持つときはなでるような持ち方をする。実際、ペンタプリズムのあたりをなでたりする。たぶん、僕以外にもそのような人がいるはずだ。

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