午前7時半SLOW living。8時半出社。午前中は「記憶の中の風景」の制作。比較的順調に進んでいく。昼までに画質調整は完了した。午後1時半、市内の個人宅を訪問。写真を受け取るためだった。その場でスキャンできるようスキャナーを持参したが、点数的に無理とわかった。3時頃帰社。短い原稿を書き上げ、入稿作業をしてから帰宅。
表現を取り除くことで生じる価値
記録としての写真は年月の経過とともに価値が増していく。昨日預かった写真はまさにそうした写真だった。僕は長年、自己表現としての写真を撮り続けてきた。形は変わっても、これから先ずっと撮り続けるはずだ。だが、そのような写真作品とは異なる価値が存在する。そして、そのほうが社会的な価値という点では重要度が高い。
今回、スロウに掲載するために1点の写真を借りた。その写真は実に鮮明なものであった。80数年前の帯広の街並みが克明に記録されている。大型カメラで撮影したことは明白だ。撮影者にはおそらく「作品」という意図はなく、「記録」に徹してカメラを構えたことだろう。そこが重要なポイントだ。
たぶん、僕が撮影すると、そこに何かしらの表現を盛り込みたいと考えるに違いない。そういう写真も当然あってよいわけだが、自己表現を取り除き、記録に徹したとき、写真には別な価値が生じるのではないか。撮影した時点では即物的に思えても、何10年という時間が経過するにつれ、重要度が増していく。
それはなぜか。写真に写っていたものが失われたり、破損したり、変容してしまうからだろう。昔の街並みの写真を見ると、現存する建物は少なく、ほとんど建て替えられてしまっている。写真によって昔の記憶を蘇らせることができる。あるいは生まれる前の街並みを想像することができる。
今カメラを持って街中を歩いたとしても、街並みを単純に記録する気持ちにはなりにくい。何か表現したくなってしまう。しかし、本当に歴史的価値を持つのは、作為なしに純粋に記録したものだろう。今の街並みにはさほど関心が湧かなかったとしても、数10年後に写真を見る人の感じ方は異なるはずだ。昭和の写真を見る僕と同様、興味深く写真を見入るに違いない。
ひたすら記録に徹する。そして克明に記録する。幸い、今のデジタルカメラの画質は昔の4×5に匹敵するレベルである。撮影日時も同時に記録される。昭和の写真の多くはプリント(印画紙)の状態で残っており、撮影日時がわからないものがある。素晴らしい写真なのに撮影時期も場所も不明というものが少なくない。
デジタルカメラの時代に入った2000年以降、記録としての価値を持つ写真はたくさん残っているはずだ。ただし、画質の問題がある。2000年代のデジタル写真は今のものに比べ、画質が低い。フィルムカメラからデジタルへの移行期。この時期の記録写真で鮮明なものは価値が高いのではないかと思う。