
9月11日分。午前9時15分、中小企業家同友会とかち支部事務局長のS氏とともに企業訪問。午後4時、昭和写真集のミーティング。6時半、帯広柏葉高校。協賛会運営委員会。9時帰宅。12日は7時半SLOW living。午前中びっしり店関係の作業。午後も店関係の買い物。夕方からも作業の続き。午前1時過ぎまでかかった。自動化せねばと思った。
失った時間は取り戻せる
3連休は原稿執筆に充てるつもりだったが、もくろみから大きく外れることとなった。別段どうということはない。僕の場合、計画が大幅に変更されるのは日常のこと。もちろん、変更されることを計画に織り込んで、余裕を持ったスケジュールを立てているわけではない。だから、本当にスリリングな気持ちを味わうことになる。けれども、そんなときは不思議な現象が目の前に現れる。必ずそうなっているのだ。僕はそれを「奇跡」と呼んでいるが、本当に奇跡なのかどうかよくわからない。きっと周囲の人の親切な計らいによって助けられているのだろう。
もちろん、そうではないケースもたまにある。だが、そんな場合でも必ず切り抜けられる。35年くらい前から雑誌の仕事をするようになり、「ここで眠ったら大変なことになる」という場面を何度も経験してきた。しゅんやスロウの編集者も、僕と同じような経験をしていることだろう。だが、発行されなかった雑誌はない。ページが真っ白になった夢を見ることはあるものの、実際に白くなったこともない。必ず助かっているし、間に合っているのである。
そのような理由から、僕は根拠のない安心感を持っているようである。それが危険なことは重々承知している。10年くらい前から体力的に無理かがきかなくなってきている。徹夜すると、次の2日間が使い物にならない。睡眠時間を考慮した上でスケジュールを逆算する。だが、前述の通り、予想外(僕の場合忘れていることもある)の変更が起こりうる。年々、「奇跡」への依存度が高まっているというのが実情だ。
僕の結論を述べると、失った時間はあとから取り戻せるようになっている。これは必ずといってもよい。日常業務の中ではうまい具合に穴埋めされることが多い。大量の時間を失うようなケースであっても、中長期的に見ると取り戻せるようにできている。そして、「これは何年前かに失った時間が戻ってきたのだ」とわかることがある。
時間を大切にすれば、一時的に失ったかのように見えても取り戻すことができる。また、予期せぬ用事が自分にとって重要な時間であるというケースも少なくない。つまり、無駄な時間というものはない。
今現在意味が見いだせない時間があったとしても、真剣に取り組むうちに意味が備わってくる。本当に無意味であるならば、断る、逃げる、捨てるのいずれかの選択をしているはずだからである。