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写真論32 写真と計算

写真論32 写真と計算

12月3日以来の投稿となる。これほど間が空いてしまうと、Googleカレンダーに記載されていること以外、ほとんど思い出せない。すでに「業務日誌」ではなくなっている。年内は飛び飛びの投稿で終わりそうだが、2023年には体勢を立て直したい。土日は写真関係の仕事を行った。

写真と計算

昔から「写真は引き算」と言われているが、僕は引き算とも足し算とも考えたことはない。頭の中で計算して、足したり引いたりすると、僕の場合は作為的な写真となってしまうことが多い。だから、頭の中が動き出す前にシャターを押す。考える前に撮影が終わっているというのが理想形だ。
 だが、4×5(大型カメラ)で撮影する場合、そうはいかない。4×5に限らず、三脚にカメラをセットした時点で、考える撮り方になってしまう。その場合はとことん考える(といっても30秒前後だが)。考えて撮る写真には法則のようなものがあって、自分にとって心地よさを感じるフレーミングであることが多い。自分にとって安全圏と思える写真。そうした撮影が続くとさすがに飽きてくるため、撮影は手持ちが一番と思うようになっていく。何が心地よいのか考える撮影。必要なときもあるが、計算を排除するような撮り方の中から新しい写真が生まれてくる。
 人間は考えまいと思っても考える。反対に、考えようと思っても考えていないこともある。つまり、考えたいときに考えることができず、考えないようにしようと思ったときについ考えてしまう。そういう傾向があるような気がする。
 考えることは人間にとって大切なことではあるが、そこに計算が入ると、僕の場合は心地よい写真にはなりにくい。もちろん、計算ずくで素晴らしい写真を撮る人もいるから、あくまでも「僕の場合」という話。これは僕が計算を苦手としているからかもしれない。何しろ、電卓を使ってもしょっちゅう間違える。考えるが計算は苦手。これは僕の写真にも、それ以外の仕事にも当てはまりそうだ。
 写真のおもしろいところは、自分が撮影者でありながら鑑賞者にもなれるという点にある。撮影時、確かに被写体にカメラを向けているのだが、被写体すべてを認識して撮っているわけではない。メインとなる被写体といくつかの構成要素を一瞬のうちに認識し、シャッターを押す。「いくつかの構成要素」からもれた被写体は、撮り終わった後、その存在に気づく。そして、気づかなかった被写体が実は重要な意味を持っていた、ということに気づくことがあるのだ。
 これが僕にとっては写真の愉しみとなっている。計算して撮るタイプのフォトグラファーであっても、計算しきれない意外な被写体の存在に気づくことがあるだろう。写真には、人生、そして企業経営との共通点が実に多い。ここがおもしろくもあり、悩ましいところでもある。

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