今週は写真集「十勝・帯広 昭和の記憶」の写真収集と制作に全力を注いでいる。先月末から大量の写真を複写。今週の火曜日には帯広の某所にて段ボール6箱の中から写真を選んで複写していった。昨日は十勝の某自治体へ。30GB分のデータを借りた。十勝19市町村、ほぼまんべんなく写真が揃いつつある。夕方、会社に戻るとPR用のブックカバーができあがっていた。
表現と記録
写真というものは本当に不思議な力がある。昭和の写真を丹念に見ていくと、改めて考えさせられるものがある。
撮影者はプロアマ問わず、きっといい写真を撮ろうと思ってカメラを向けているはずだ。作品づくりを意識している人であればなおさらそうに違いない。写真を使って自己表現を試みようとする。それは僕が45年前から行ってきたことでもある。
そうした自己表現としての写真は確かに意味のある活動ではあるのだが、写真にはもっと底知れない力が秘められている。それは時間を定着させる力というべきかもしれない。昭和の写真を見ると、確かに昭和のとある瞬間が定着され、しっかり記録されている。そして、自己表現としての写真よりも記録としての写真のほうが力を持っていることが多いことに気づかされるのである。
撮影時にはきっと意識していなかったであろう店の看板や店頭の張り紙といったものが、数10年の時間を経て、記録としての価値を高めている。被写体となった人々の服装や髪型からも時代を感じ取ることができる。何気なく撮った写真であるはずなのに、後世の人々に強烈な印象を与える力がある。その事実に改めて写真の不思議さを感じることになる。
写真を始めたばかりの高校生の頃は、至る所にある電柱、電線、標識、看板が写り込まないように撮影していた。自己表現の邪魔となる異物だと感じていた。今でも「異物」という意識があって、無意識的に排除しようとする傾向がある。だが、昭和の写真では「異物」が興味の対象となっている。撮影者としての自分と鑑賞者としての自分では立ち位置がずいぶん異なるようだ。
写真家が表現よりも記録することにシフトしていけば、後世の人々にとって価値のある写真を残すことができるに違いない。実際、そのことに気づいていたと思われる写真家が何人かいて、昭和の十勝を的確に記録している。それらの写真を埋もれさせないよう、データと書物で整理・保存することが重要だ。すでに撮影年代、撮影場所、被写体が何なのかがわからなくなっている写真が実に多い。デジカメの時代になり、撮影日時は正確に記録されるようになっているが、何が写っているのかについて、撮影者が記録に留める必要がある。写真家は几帳面であらねばならない。表現者としてよりも記録者として写真を撮影、保存する姿勢が求められる。