子供の頃、僕にとって明治生まれの人はみな、おじいさんかおばあさんだった。江戸時代に生まれた人もいたとは思うが、江戸時代は僕にとって「学校で学ぶ歴史」という位置づけ。直接話を聞くことのできる過去は明治まで。といっても、核家族化が進んでいた高度成長期、明治生まれの人から話を聞く機会は限られていた。また子供の頃の僕は歴史に対する興味が薄かった。今思うと、非常に残念なことだ。若い頃は過去よりも未来に意識が向かうもの。歴史を知ることの重要性について認識するのはずっと後のこと。ある程度人生経験を積んでから、物事の背景に関心を持つようになったり、歴史を知っておけばよかったと思うようになる。若い頃から歴史に興味を持つような教育が求められる。
今は令和の時代。その前は平成(31年)、昭和(64年)、大正(15年)、明治(45年)。その先は何だったっけ……。一応「慶応」という元号までは頭に浮かぶが、それ以上さかのぼることは僕にはできない。調べると、元治、文久、万延、安政……と続く。江戸時代は僕にとって遠い昔の時代。学校で学んだり、本の中で知ることのできる歴史だ。
そこでふと思ったのは、平成生まれ、令和生まれの人たちにとって、どこまでがリアルに感じられる時代なのかということ。そして、どこからが「学校で学ぶ歴史」となるのだろうか。
僕が生まれたのは昭和36年。10歳くらいになればある程度歴史を理解できると想定。昭和46年を起点に計算する。46+大正の15年。昭和46年当時、明治45年生まれの人は61歳だ。まだまだ元気な年代。たぶん明治20年代生まれの人からだって話を聴くことができたはずだ。
61歳。考えてみると今の僕の年齢だ。ということは、今の10歳(平成25年生まれ)の人からすると、僕は「明治生まれ」のような存在なのかもしれない。そして、明治・大正はもちろん、昭和初期から戦前のあたりまでは「学校で学ぶ歴史」ということになるのだろう。コミュニケーションギャップが生じるのは当然なのかもしれない。
だが、僕にとっての「江戸時代」と今10歳の平成25年生まれにとっての「昭和初期~戦前・戦中」とは、明らかに違っていることがある。それは写真の存在である。幕末の写真がわずかに残っているものの、江戸時代の映像はほぼないに等しい。写真が盛んに撮られるようになるのは明治以降のことだ。写真があれば、何が起こったのか、リアルに知ることができる。歴史の教科書に載っていない出来事が克明に記録されている。正確な年代や場所、写っているものが特定できないものも多いが、それでも時代の空気感が写真から伝わってくる。
地方の歴史については学校の教科書にはほぼ載っていない。副読本、郷土史、自費出版物等を通じて知ることになる。その際、もっとも伝わりやすい媒体が写真であるに違いない。写真による記録から少し遅れて、音声や動画による記録も増えていく。あと数10年もすると、歴史はYouTubeの動画で知る……という時代になるのかもしれない。
歴史に触れるのがたやすくなる一方、歴史を見る目をどう養うのかが課題となる。情報過多の時代には、自分にとって都合のよい情報のみ選別する傾向が表れる。ここが危ういところである。
昭和の記憶02 リアルに感じる歴史
2023年3月3日 (Fri.)