
今朝の新聞に「はやぶさ2が小惑星りゅうぐうから採取した試料を分析した結果、RNA(リボ核酸)の原料が見つかった」という記事が載っていた。生命誕生の謎に迫る発見のようだ。
だが、僕の感想は「圧倒的過去」よりも「程よい過去」のほうが個人的には興味が湧くな……というものだった。宇宙とか生命の起源にもワクワクするものはあるが、自分の手で謎を解くことはまず不可能。それに「自分の祖先は小惑星に運ばれてきた」といってもピンとこない。それよりも、祖先は富山県と栃木県からやってきた、というほうが幾分リアリティを感じることができる。
程よい過去と思える時期は人によって異なるはずだ。「平成」に過去を感じる人も多いだろう。40代の人だとわからないが、50代以上の人なら、やはり「昭和」に程よい過去を感じるのではなかろうか。平成だとまだ「昨日のこと」のように思えてしまう。そのときの自分はどうだったのか、といったことを考え、「別な選択をしていたらどうなっていたのだろうか?」などと思ってしまう。
無条件に受け入れることのできる程よい過去。それが僕にとって「昭和」ということになる。その中にも人生の選択ミスや別な人生につながる選択肢はあったわけだが、今となってはそのほとんどすべてを肯定的に受け入れられるものだ。記憶はよみがえれば、その分、自分の過去が少しだけ豊かなものになったような感覚になる。
年をとると、最近のことは忘れるが、遠い過去のことを思い出すことがある。これは多くの人に共通する現象といえる。程よい過去の記憶は自分の人生を豊かなものに変える。老化現象のひとつなのかもしれないが、悪いことではない。最近のことも覚えていられればベストではあるのだが……。
程よい過去の記憶を呼び覚ますツールのひとつとして写真がある。書籍、動画、音声といったツールもある。考えてみると、同窓会の集まりも記憶を呼び覚ますための行動と言えそうだ。ちょっとしたきっかけによって、仕舞い込まれていた記憶がよみがえってくる。
ただよみがえるだけではない。当時よくわからないままだった過去の謎が解明されることもある。子供時代の謎は他愛のないものが大半を占めている。しかし、ばかげた謎の解明に取り組んでいくと、おもしろい発見に出合うこともある。こういうことだったのか、と50年以上経ってからわかることもあるのだ。
少しだけ後悔しているのは、もっと早く歴史、それも郷土史に関心を持つべきだったということだ。特別詳しくなろうとは思わないが、街を歩きながら過去の映像と歴史が頭に浮かぶようになると、より楽しいに違いない。人数としては少ないものの、移住者の中には地元の歴史についてやけに詳しい人がいたりする。これには別な理由があるのかもしれない。それでも、現在の街を見て過去の街をイメージできる人は豊かな気持ちになれるだろうし、きっと未来の街をイメージできることだろう。
時間軸で物事を考えられるようになるためには、程よい過去を知る必要がある。そのためのツールを作る活動には意義深いものがある。
※写真は1977年、帯広柏葉高校近く(たぶん)