
一日中デスクワークに使うことのできる日は滅多にない。貴重な一日だったのだが、思ったよりもスピードが上がらない。
今朝、ちょっとした疑問が解決した。先代が撮ったと思われる昔の写真を選びながら、「やけに縦位置の写真が多い」ことが気になっていたのだ。こんな簡単な事実に気づかなかったとは……。そうだ、1960年代当時はハーフサイズカメラが全盛だったのだ。確か、自宅にオリンパスペンがあったような記憶がある。ハーフカメラとは、ライカ判(36×24ミリ)を半分にして2倍の枚数を撮影できるカメラ。普通にカメラを構えると縦の写真になる。スマホで撮った写真や動画に縦位置が多いのと同じ理由だ。
文章を書く
文章の書き方に関する話は、ここでは最小限に留めたいと思います。詳しくは拙著「写真家的文章作成技法」(クナウこぞう文庫)をご一読ください。
僕がいつも思うのは、「自分には文章を書く能力はない」と思い込んでいる人がやけに多いということ。文章を書くのに特別な能力が必要だと考えているフシがあるのです。不思議なことに「苦手」という人であっても、メールを書いたり、SNSに投稿したりしている。日常的にちゃんと文章を書いている。どうやら、「日常的に書く文章」と「冊子に載せる文章」との間には大きな隔たりを感じているようです。
その感覚、わかるような気がします。僕も30数年前、初めて雑誌に載せるための文章を書いたとき、特別な緊張感を感じていました。200字くらいの短い文章を書くのに丸一日かかったこともありました。今考えると「技術の未熟さ」ではなく、心理的な壁が大きく作用していたのだと思います。もっとリラックスして書けばよいのです。
周年記念誌に求められる文章は、まず日本語として正しいかどうか。文学的センスも主義主張も必要ありません。基本的には起こった出来事を読者に伝わりやすいように書いていく。必要な情報がきちんと書かれていることが最大のポイントです。
頭を使うのは「文章を書くこと」ではなく、「出来事を的確に理解すること」ではないでしょうか。昔の文献を読んだり、インタビューや座談会で話を聞いたとしても、リアルに経験したことのない出来事について、全体像を把握するのは困難なことです。まずは情報をすべてインプットする。そして理解に努める。その準備ができてから原稿を書き始めます。
このプロセスを省略してしまうと、集めた資料を抜粋したような書き方になるでしょう。記念誌に限らず、そのような文章をときどき見ることがあります。情報が少ないためやむを得ない場合もありますが、それでも「自分の書いた文章」になるよう、表現に工夫を凝らしましょう。時代背景や業界の動向、関連する出来事などと組み合わせて書くとよいかもしれません。資料はあくまでも素材。材料のままでは料理として出すことができないのと同じ。「出来事の正しい理解」というプロセスを経てから原稿をまとめることが大切。周年記念誌では、書き手の文章力よりも、起こった出来事そのものに読者は関心を寄せていると考えましょう。
※1960年代と思われる朝野球での集合写真。「Nipposya」の文字が見える。