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第14回 主観と客観の狭間

第14回 主観と客観の狭間

おはようございます。
 タイトルからして、今日もちょっと硬い文章になりそうだなぁ・・・。できるだけ気をつけます。
 昨日は「ものすごく尊敬している会社」と「ものすごく伸びている会社」を訪問し、たっぷり話を伺うことができました。我が社のどこに課題があるか、よくわかりました。我が社の課題というのは、もっと平たく言うと僕の課題ですね。課題を過大に捉えてはいけないが、冷静に現状分析し、計画を練り、打開する必要がある。一日研修に参加したような気持ちになっていました。
 企業経営では自社を客観的に見つめ直すことが重要とされています。SWOT分析といった、内部資源分析、外部資源分析がよく行われる。我が社でも毎年行っています。ただ、僕は「それだけでは不十分ではないか」と常に思っています。
 特別な強みを持つ会社であれば、客観的に分析し、そこから成長戦略を練り上げることができるでしょう。しかし、自社の持つ強みが特別なレベルにあるとはいえない場合、普通に分析しても普通の戦略にしかならない。それは戦略でも何でもないということになってしまいます。
 それよりも、「自分は(自社は)何をどうしたいのか?」のほうがはるかに重要なはずです。自分の欲求、やらずにはおられない何か。それを大切にするというのが僕の経営姿勢。主観か客観かといえば、僕はずいぶん主観寄りの人間といえるでしょう。
 これはドイツの写真家オットー・シュタイナートが提唱した「主観的写真」の影響かもしれません。僕はリアリズムよりも主観的写真に惹かれて、写真の道へ進んでいったのです。
 ただ、主観主義の危うさも知っています。主観に傾きすぎても客観に傾きすぎてもいかん。両者の中間(真ん中という意味ではありません)に自分の求める道があるのではないか? 写真に関しては1983年に気づき、企業経営に関しては2007年頃(はっきりしない)、そうした考えを持つようになっていきました。
 おっとー、写真でも経営でもなく、本ブログは文章作法の話でした。執筆にあたっての自分の心の持ち方について、これから書いていこうと思います。

妥当性を打倒する

僕が恐れるのは主観と客観、どちらか一辺倒になってしまうことです。
 これから書こうとする文章がどんなものかにもよりますね。事実主体の文章であれば自分の主観を盛り込むことはできません。新聞記事(報道面)に主観が入っていては困りものです。雑誌の場合はどうか? 事実主体のものもあれば、書き手の感性を重視する雑誌もある。編集方針によって、ずいぶん違いがあるものです。
 自分史やエッセイといったものはどうでしょう? 事実をゆがめてはいけないけれど、「自分がどう感じたのか」「何をどう考えたのか」が書かれていなければ、文章としての魅力は半減・・・どころかほとんどないと言ってよいでしょう。
 僕がふだん書く文章も同様です。事実だけ書くことはほぼありません。事実をベースに、自分の考えや感じたことを伝えていく。主観の部分にこそ、自分の伝えたいメッセージがあるのです。
 メッセージ性がない文章を延々書いていると、僕の場合、すぐに肩が凝ってしまいます。メッセージがないとマッサージ機のお世話にならねばなりません。客観的文章が書けない性分なのです。
 さて、ここからが重要な部分。「主観って何?」という質問を、僕は社内で受けたことがあるのです。もうずいぶん前の話。軽いショックを受けました。辞書にはこうあります。

1.対象について認識・行為・評価などを行う意識のはたらき、またそのはたらきをなす者。通例、個別的な心理学的自我と同一視されるが、カントの認識論では個別的内容を超えた超個人的な形式としての主観(超越論的主観)を考え、これが客観的認識を可能にするとする。 → 主体
2.自分ひとりだけの考え。
(大辞林第三版)

いやはや。僕の定義する「主観」とは大きくかけ離れていました。3回読みましたが、僕には難しすぎてわかりません。「2」のほうは意味としてわかるものの、どうも納得がいきません。辞書に異を唱えても始まりませんが・・・。
 「自分はこう観る」という定義ではいけないのだろうか?
 「主観的」で辞書を引くと「自分だけの見方にとらわれているさま」とあります。辞書ってずいぶん強引だな・・・。ついでに「客観的」も調べてみます。「個々の主観の恣意を離れて、普遍妥当性をもっているさま」とあります。主観的なのは低レベルで、客観的なものの見方をしましょう・・・という意味なのでしょうか?
 写真家的文章作成技法では、この「普遍妥当性」を打倒したいと思います。文章に求められるのは普遍妥当性だけではない。個人の持つユニークな視点、もっと言えば「一風変わったものの見方や考え方」にこそ、魅力があるのではないかと思うのです。
 「自分らしさ」を解放する。ただ、解放しすぎると文章的には日本語として崩壊することになる。ですから、主観と客観の狭間を自分で見極めながら文章を書き進めることになる。僕はそう考えています。
 僕の場合、「物事を客観視している自分を疑う」こともあれば、「主観に傾きすぎる自分にブレーキをかける」こともあります。あるいは「主観的に物事を見ている自分を客観的に観察する」といったことも行います。すべて、写真活動を通じて身につけた思考法。おそらく、多くの企業経営者も同じように身につけているのではないかと思います。この手法を手にすれば、魅力的な文章を書くことができる(たぶん・・・ですが)。
 ちょっと観念的な話になりましたかね・・・。
 明日は、主観的表現について具体的に考えていくことにします。ではまた。

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