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スロウ創刊前夜のこと(前編)

スロウ創刊前夜のこと(前編)

おはようございます。
 午前中は会社で短い原稿を1本書き上げました。社内は蒸しています。気温が高いわけではなく、湿度が高い。北海道らしくありません。午後は自宅のパソコンに向かう。いくつか気にかかっていたことが片づいた。自宅の仕事環境はかなり理想に近いものとなっている。ここから偉大なアイデアが生まれる日も近いに違いない。

スロウ誕生を予感させる自社媒体

今日は鶴居でスロウ関係者にとって特別なパーティーが行われる日。そんなわけで、たぶんみんなの知らないスロウ創刊前の出来事について書いてみようと思います。これから書くことは「僕にとっての真実」ですから、他の関係者にとっては真実ではないかもしれません。事実はひとつですが、真実は人の数だけある。僕の解釈によるスロウ誕生秘話だと思ってください。
 スロウのような雑誌が誕生したのは、もしかしたら必然だったのかもしれない。2004年の創刊当時、そんなことは考えもしませんでしたが、今では確信レベルにまで近づいています。
 月刊しゅんに対しても、僕は同じような確信を持っています。どうしてか? 僕のぼんやりとした記憶では、1980年代からソーゴー印刷では自社企画の出版に対して試行錯誤が繰り広げられていたのです。「印刷会社は出版に手を出してはいけない」。そんな業界の常識を打ち破りたい。先代はそう考えていたような気がします。
 しゅん20周年お祝い号の中で、「しゅんの前に『北の四季』があった」ことを記しました。1996年創刊。当時の我が社の広報誌といった位置づけの冊子。ですが、広報誌にしてはずいぶん立派なもの。しゅん創刊の1998年には姿を消しています。実質2年間という短命に終わった媒体。おそらく、月刊しゅんを創刊するためのトレーニングとして作られた媒体だったのではなかろうか?
 しかし、「北の四季」を読むと、ずいぶん味わい深い記事が多いのです。読後感はスロウに近い。僕がスロウで連載している「北海道 来るべき未来を見つめて」のような記事もある。先代社長の研究テーマに関する記事もあって興味深い。このテーマはいずれ改めて紹介したいと思います。
 僕の解釈では、「北の四季」はしゅんとスロウ、両方のルーツ。もちろん、スロウは当時の若手編集者と現編集長が企画し、2003年から創刊に向けて準備したもの。ですが、我が社の歴史の中には「自前の媒体を持ちたい」という欲求がずっとあった。社内のどこかでくすぶっていた情熱に火がついた。そのようにも考えられるのです。

2003年の葛藤と対立

スロウ創刊に向け準備を開始した2003年は、僕個人にとっても会社にとっても動きの激しい年でした。
 僕は日創研のTTコースというハードな研修に通っていて、東京、大阪へ行くことが多かった。出張すると社内ではしょっちゅう問題が発生した。困った問題がひとつ解決されると、我が社はほんの少しだけ、よい会社に変わった。これを繰り返すうちに、我が社は大きな変貌を遂げた。
 変化する我が社の真っ只中、スロウのプロジェクトがスタートしました。2003年夏だったと記憶しています。雲をつかむようなところから話が始まりました。最初は今の版元名である「クナウマガジン」を雑誌名にしようと、当時の編集者は考えていたようです。正確にはどうだったのかわかりませんが、そこへ「スロウ」案が急浮上。僕は「スロウ(ゆっくり)ではビジネスにならない」と反対したものの、あっという間に押し切られて「スロウ」に決定。
 そこからが長かった。すぐに雑誌コンセプトを決め、企画を立て、取材活動や広告営業をするというのが普通のパターンでしょう。さすが「スロウ」というべきか、ここからじっくりスロウペースで編集理念をまとめ上げていくことになったのです。会社の応接室を占拠し、1回につき2時間程度ディスカッション。これを何度繰り返したことか。
 数ヵ月かかってまとめた編集理念が、「足元の豊かさに光を当てながら、わくわく北海道をつくります」。時間をかけてつくりあげた理念だけに、創刊から今日までぶれることなく理念に沿った雑誌づくりが行われている。この点は、しゅんも同じですね。編集理念があると一貫性が生まれる。雑誌にも、部署にも、会社全体にも理念は必要ですね。
 数ヵ月(たぶん半年くらい)もかかったのには、もうひとつの理由がありました。編集理念明文化と並んで、ビジネスモデルをどのようにするかという課題があったのです。
 この問題では侃々諤々意見を戦わせたと記憶しています。といっても、僕ひとりが抵抗していたというのが当時の状況。一対多という構図でした。僕が何かを提案するとあっさり却下され、僕以外の人たちの間で意見がまとまろうとすると僕が反対する。しかし、多勢に無勢。毎回押し切られる。
 最大の論点は「どのように経済性を持たせるのか」というところ。ここは今も解決しているとは言い難い。僕は広告料収入をひとつの柱にすべきだと考えていました。が、僕以外の人たちは通販事業を推していた。
 14年たった今、僕が思うことは「無理に自分の意見と通さなくてよかった」ということです。社内の多くの物事は、多数決で決めるべきではない。けれども、世界観やイメージが共有されているところに異論をはさんでも意味はない。すでに、編集者たちの間でスロウの世界観ができあがっていたのでしょう。僕はスロウの損益分岐点に意識が向いていた。この時点で勝負ありだったのかもしれません。
(続く)

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