
鶴居村/2018.7.14
おはようございます。
昨日はスロウ副編集長K氏の結婚式でした。場所は鶴居村のハートンツリー。天候が心配されましたが、ここぞという場面で日が差し込んできた。何だかドラマチック。僕は乾杯の発声をさせていただきました。ショートバージョン。全部話してもよかったかな? そんな会場の雰囲気でした。広大な風景とハートンツリーの美しい料理。素晴らしいですね、丘の上での結婚式は。
創刊号秘話
2003年はスロウ編集理念の明文化やビジュアリゼーションのために費やされました。編集部らしい活動はプレ取材だけだったと思います。僕がフォトグラファーとして取材に参加したのは、2004年4月のこと。5月25日発行ですから、ずいぶん遅めのスタート。編集者3名のうち2名は月刊しゅん編集部からの異動。もしかしたら、月刊誌の感覚が影響したのかもしれません。
これはどの雑誌にもいえることだと思いますが、創刊のときは当然ながら見本誌と呼べるものが存在しない。あるのは企画書や本文ページが真っ白の「0号」があるだけ。ですから、「雑誌スロウの取材」と言って電話をかけても「何それ?」ということになりやすい。今は先方がスロウを知らなくとも、見本誌を送れば話は通じやすい。14年前にはそれがありませんでした。取材先に理解してもらい、アポを取るのはけっこう大変なことだったのではないかと思います。
次の課題は北海道の広さ、距離感がよくつかめていなかったこと。北海道民なのにおかしいと思われるかもしれません。けれども、道民であっても車で稚内や函館に行くことは滅多にありません。
しかも、当時はまだ道東自動車道が開通しておらず、西へ向かうには日勝峠を越えていかねばなりません。札幌での研修に参加するため、当時しょっちゅう日勝峠を走っていた僕は、不安に感じていました。運転技術の未熟な編集者が事故を起こさないだろうか……。編集長も僕と同じ考え。創刊からしばらくの間、冬の峠越え取材は禁止になっていました。
たぶん、そのような事情もあって創刊年の雪解けから取材が始まったのでしょう。日勝峠という難所があったため、道央、道南方面の取材では移動に時間を要しました。なのに、かなり無茶な日程が組まれていた。一番ハードだったのは、4月25日に共和での取材を終え、深夜帯広着。翌朝は尾岱沼取材。朝3時起床。たぶん、眠ったのは1時間ちょっと。今ではあり得ないスケジュールの組み方ですね。このとき、「道東は広い」と思い知りました。
創刊号の取材は4月中旬から下旬に集中していたと記憶しています。現在のスロウは発行の2ヵ月前が取材活動のピーク。したがって、当時の編集者には相当負荷がかかっていたに違いありません。手探り状態なのに、発行日は1ヵ月後に迫っている。編集作業はゴールデンウィークまで食い込むことになりました。
僕の脳裏には、ガランとした社内でスロウ関係者数名が何やら懸命に作業をしている、という風景が焼き付いています。そんな中で、たぶんM編集長だったと思いますが、「日高山脈の写真が必要だ」と言い出し、急遽撮影しに行くこととなりました。下版が差し迫っているという段階での風景撮影。デジカメの時代になっていてよかった……。こうした「下版間近という段階での写真差し替え」は、今日のスロウ編集部でもたまに行われています。
能力、技術を超えるもの
話は前後しますが、普通は取材前の編集会議の段階でページ数が決まります。スロウは広告の増減でページ数が決まるという雑誌ではありません。第2号から今日まで、ずっと190ページ。ところが、創刊号だけ80ページほどの薄いつくりとなっています。
スロウ編集部は編集理念に半年近く時間をかけただけあって、理想の高い雑誌づくりが行われようとしていました。けれども、各編集者はやることすべてが初めての経験。フリーマガジンの経験はあっても、雑誌づくりは初めてなのです。そんな中、当時の編集者たちはみな弱気になっていました。「100ページを超える雑誌なんて、私たちにはつくれない」。そんなふうに、勝手に思い込むようになっていた。
僕の思い描いていた新雑誌は150ページ前後のもの。広告はほとんど入らないにしても、そのくらいの情報量はほしいと思っていました。編集長も「まいったな」と思っていたに違いない。けれども、無理矢理ページを膨らませるわけにはいかない。スロウは創刊当時も今も、各編集者が自分の記事を自由につくることができることになっています。各編集者の自由に任せたら、ちょっと貧弱なつくりの創刊号が誕生していました。
しかし、ここからの展開が見事というか立派でした。「私たちのつくりたい雑誌はこれじゃない」と奮起し、大胆なページ構成、執拗なまでのデザイナーへの要求、写真に対してもずいぶん口出しされました(されたのは僕だけかな?)。
短期間の間に内面的変化が起こっていたに違いありません。各編集者の書く文章は哲学的なものとなっていました。文章作成技術にはバラツキがあったものの、そこには強いメッセージが感じられました。スロウの目指すところは人間的な雑誌ですから、編集者の人間性や価値観がそのまま誌面に反映されることが望ましい。自分という存在を隠して、表面的事実を載せるだけでは、スロウの編集理念に沿っているとはいえないのです。
かくして、第2号は見違えるほどの出来映えとなりました。僕は東京出張の飛行機の中で読み感動していました。感動するものの、機内だけでは読み終えることができず、宿で読んで再び感動することとなった。
技術、知識、人間性……。これらが優れているからいい雑誌、いい仕事ができるのではありません。僕の考えでは「本当に本気になったとき」「得体の知れない情熱に動かされているとき」にいい雑誌ができあがる。これはあらゆる仕事に共通して言えることではなかろうか?
できない理由を自分の能力、知識不足のせいにする人は多い。けれども、本当に不足しているのはやる気、情熱のほうでしょう。ありあまる情熱があれば、能力、技術を超える価値が生み出される。洗練された雑誌よりも、このほうがスロウらしいような気がします。