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第2回 不器用な人の強み

第2回 不器用な人の強み

おはようございます。
 ようやく書き続けていた原稿がまとまった。まだ完成ではない。タイトル、見出し、キャプションはこれから。だが、ここまでできればあとはすんなりいきそうだ。お盆休みもあとわずか。手つかずの仕事が大量にある。ずいぶん遅れているような気がする。
 気になっているせいか、今朝は3時過ぎに目が覚めてしまった。すると、頭の中でまとまっていなかった問題の解答らしきものが浮かび上がってきた。何度も経験していることだが、睡眠というのは僕にとって上質な思考の時間といってよいのかもしれない。困ったときは眠るに限る。

「苦しむ」というプロセス

32年前、門外漢のライターとしてスタートした僕は、ものすごく長い時間をかけて、ほんのちょっとの文章を書いていました。書いた文章よりも、かいた汗のほうが多かったのではないかと思います。駆け出しとはいえ、仕事である以上、締め切りというものがある。スピードは遅くとも、書き続けなければ書き終えることはありません。
 苦しみながら書き続けているとき、頭の中ではどのようなことが行われているのだろうか? 本当のところはわかりませんが、意識レベル以外のところでも、「原稿をまとめる」という目標に向かって、脳細胞が働いていたのではないかと僕は想像しています。つまり、理性でも考えているが、無意識の領域でも何か活発に活動しているに違いない。そう思うのです。
 僕の書き方は32年前も現在も、大きく変わっているわけではありません。必ずといってよいほど、あるプロセスを通過しなければならない。この書き方をマスターしたのが32年目、つまり駆け出しの頃でした。
 これを「マスターした」と言ってよいのでしょうか? 僕の書き方の最大の特徴は、実は「苦しむというプロセスを経ること」なのです。もちろん、意図して苦しむわけではなく、どういうわけか、そうなってしまう。楽々書けそうなテーマであっても、苦しみの度合いはさほど変わりません。
 みんなはどんなふうに書いているのでしょう? ごくまれに、「ああ、楽しかった」と言って書き終える人がいるにはいます。けれども、本当に楽勝といった感じで最初から最後まで書いているのだろうか? このあたり、僕にはよくわかりません。
 たぶん、「苦しい」と「楽しい」の定義が人によって異なるのでしょう。そして、苦しみに対する耐性という点でも、個人差が大きいに違いない。僕がものすごく苦しいと感じることでも、能力の高い人にとっては苦しみのうちには入らないのかもしれません。
 そういえば、僕は子供の頃から長距離走が苦手で、マラソン大会があると2、300メートル走った時点で歩き出す……というタイプでした。したがって、ゴールする頃にはすでに大会が終わっていた。たぶん、僕と同じタイプの人間は1学年に3、4人いたと思います。みんな今もちゃんと働いているのだろうか……。
 仕事とはありがたいもので、苦しくとも楽しくとも完結しなければなりません。もっとありがたいのは、苦しいと思って書いた原稿であっても、書き終えると楽しくなっている。最後の楽しさを教えてくれるもの。それが僕にとって「原稿を書く」という仕事でした。自分の専門分野である写真とは、ここが最大の違いかもしれません。

「苦手意識」の意味

門外漢であることの証明となるもの。それは、文章を書いていて、いつも「不器用だなぁ」と感じてしまうことです。
 たぶん、我が社の編集者たちは、僕ほど苦しんで書いてはいないような気がします。誰か忘れましたが、「スロウの原稿を書くのが楽しみ」と言っていました。僕は軽い衝撃を覚えました。僕が楽しみなのは「スロウの原稿を書き終えること」であって、「書くのが楽しみ」ではないのです。本当のプロとはそういうものなのでしょう。
 そんな僕ではありますが、社内の誰よりもたくさん文章を書いています。スロウ本誌では一番少ない書き手ですが、他に原稿を書く場面がたくさんある。2000文字以上書かない日はありません。
 苦手意識を克服するために、異様なまでに努力を継続する。これも、門外漢であることの証明となるものでしょう。不器用であるため、ほどほどの努力では一人前になれるような気がしない。僕は、自分の書く文章に今でも自信を持ちきれておらず、どこか日本語として欠陥があるのではないかと疑っています。実際、日本語的な誤りはいくつもあるに違いない。
 それでも書き続けているのは、「仕事だから」という理由だけではない。次第にそうわかってきました。
 自分の中には伝えたいことと伝えるべきことが、自分で想像している以上にいっぱいある。そんな気がしてきたのです。
 僕の専門分野である写真は、人に何かを伝えるというものではありません。仕事として制作する写真(雑誌、広告等)の場合はメッセージ性が不可欠ですから、必ず誰かに何かを伝えていることになります。けれども、自分の作品(個展で発表するようなもの)の場合は、内向きな制作スタイルになります。メッセージを伝えるものとはちょっと違うような気がします。スロウで連載中の「記憶の中の風景」の場合は、両者の中間的位置づけといったところでしょうか? あと数年続けると、方向性が明確になってくると思います。
 内向きな制作方法である「写真」だけでは、僕の仕事人生は著しくバランスを欠いたものとなる。あるとき、そう気がついたのです。
 写真に打ち込むためには、それと同じくらい外向きの活動を行う必要がある。写真家には寡黙な人と饒舌な人とがいます。みんな何かしらの形でバランスをとろうとしている。僕の場合、写真表現だけでは解決できず、バランスをとるために文章表現が必要だった。20代の頃、たっぷり文章トレーニングできたことは、今考えると非常にラッキーでした。
 苦手意識を持ち、不器用さを感じながらも、やり続けずにはおられない。もし、そういうものが自分の中にあったとしたら、それは自分の仕事人生にとって吉兆と気づくべきでしょう。ある意味、自分の専門分野以上に、自分を成長させてくれるものだからです。

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