
おはようございます。
昨日は午後から浦幌での取材。天気予報では晴れ時々曇り。ところが、車で向かう途中から次第に雨模様に。目的地に到着したときも雨。まいったなぁ……と思っていたら、奇跡的に晴れてきた。撮影は無事終了。帰り道は再び雨。こういう日もある。
今朝は「門外漢の文章作成技法」の続きを書きます。
不自由感を肯定的に受け入れる
自分の専門分野であれば、ゴールにたどり着くための方法をわかっていることが多いものです。僕の場合は写真が専門分野ということになります。多くの場合、「このようにライティングすればこう写る」と予測しながら撮影することができる。予測できるということは、迷いが少ないということ。したがって、撮影しながら迷ったり、悩んだりすることは比較的少ない(本当かな?)。
文章を書くときはその逆なんですね。ブログを書いている朝の1時間。ここには、さまざまな迷いや悩みがある。どうして、のびのびと自由に書くことができないのだろう……。そんな悩み。あるいは、書き進めていくうちにどんどん主題から離れていってしまって、元の道に戻れなくなってしまうこともある。ブログの場合は、それもありだと許容していますが、雑誌や社内報で書く文章だと、最初から書き直さねばなりません。ときどき、そんな失敗をします。だから時間がかかってしまうのだろうか?
前回は苦手意識とか不器用さといったものが自分を成長させ、自分の専門分野に匹敵する仕事力を身につけることになる……と書きました。
ただし、門外漢である以上、たぶん一生逃れることのできないものがある。それは「不自由感」のような感覚です。僕の場合、ほぼ断言することができるのは、「自由自在に文章が書ける日はやってこない」ということ。不自由感を抱えたまま生涯書き続けることになる。それを肯定的に受け入れることができるかどうか? ここでしょうね、ポイントは。
若手の人には、何かひとつ専門分野を持つことを僕は勧めています。それがないと、不自由感100%で仕事をすることになる。専門分野を持たぬまま30歳、40歳になると、仕事に対して否定的な感情が湧いてくるようになるのではないかと思います。
努力の甲斐あって専門分野を持つことのできた人も、それだけでは深みや広がりを持たせにくい。苦手意識を感じながらも、自分の職域を広げる努力が必要でしょう。
そうした努力を積み重ねるうちに、必ずと言ってよいほど「不自由感」に突き当たることになる。当人にとっては困った感覚といえるかもしれません。けれども、僕はこれこそ自分に必要なものではないか、と思うことがあります。不自由感があることで、その道のプロにできないことが、門外漢にできるのかもしれない。そう思えることがあるのです。
思い通りにならないのが思い通り
自由にならない、思い通りにならない。これが不自由という状態です。不自由だな……と感じている状態が不自由感。
僕の解釈では、自分の自由にならないところに表現上のおもしろみがある。そう考えています。写真は偶然によって左右されることが多い。最初から不自由感というものを背負っている表現手段といえるでしょう。自分の意図とは少し違った形で成果物(写真)が誕生する。ここに写真のおもしろみがある。それと同じことが他のジャンルにも、きっと当てはまるに違いありません。
企業経営者であれば、たぶんこの感覚がわかるのではないかと思います。自分の思い通りに経営しようとすればするほど思い通りにはならない。卓越した経営者であれば「なる」と考えるのでしょうが、僕は経営者としても門外漢ですから、「ならない」と考えてしまいます。
世の中には、最初から経営者という人は非常に少ない。営業から、技術から、製造から、昇進または抜擢されて経営者になる。創業者であれば、自分の磨いた専門分野を武器にプレイングマネージャーとなる。みんな門外漢。自分の意図とは違った形の会社になっていくのが普通と考えるべきでしょう。
で、僕はここにおもしろみがあると考えるのです。自分思い通りにする。それは経営者としても、表現者としてもひとつの理想形かもしれません。けれども、ひとりの人間の理想形は周囲の人にとっては困った状況であることが多い。「思い」は一人ひとり違っているわけですから、自分の思いを100%実現させてしまうと、別な人の思いは実現されないということになる。自分としても、そんな状態は望んでいないはず。
よって、結論としては「思い通りにならないことが実は思い通りなのだ」ということになる。僕はソーゴー印刷の社長になってしばらくたってから、ようやくこの考えにたどり着きました。
あ、話がずいぶん逸れてしまいました。何を言いたいのかというと、「不自由感を感じるのは人間として正常なことなのだ」ということ。思い通りにならないと思いながら努力とチャレンジを継続することで、成果が生み出される。その中には「思った以上」とか「思いもよらない」ような成果もあるでしょう。
文章の場合も、そうした思いもよらない成果物を手にすることがあるものです。文章を書くという活動は、自分の頭の中にある混沌とした思考を整理し、それを誰にでも伝わるようまとめ上げること。これが思い通りにできすぎてしまうと、読み手は作為を感じ取ってしまうのです。読み手も、そして書き手自身も知りたいと思っているのは、「書き手の本心」なんですね。自由自在に文章を書いているときには本心が出にくいのではないか? 文章力を究めた人であれば違うのでしょうが、門外漢である僕はそう考えてしまいます。
不自由さを感じ、引っかかるものを感じながら書き進めていく。自分が読み手になったときも、不自由感がわずかに残っている文章に深い味わいを感じることがあります。
