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第1回 撮影量の変化

第1回 撮影量の変化

(c) Atsushi Takahara

おはようございます。
 なぜか早起きしてしまった。目が覚めたら午前2時半。それから1時間、ただパソコンに向かって座っていた。ものすごく静かだ。
 昨日は経営発表大会用のセミナー用資料作成。例年とは会場が異なるため、見やすいように文字の大きさを変えてみた。すると、ページ数がやたら増えた。時間内に収まるのか? 一度試してみる必要がある。他にはスロウ37号の校正作業等。
 「新版・次世代幹部養成塾」第1部が完結したため、新しいテーマで書こうと思っています。我が社は10月から第59期。来期、僕は写真撮影に力を入れていきたいと考えているところ。もっと風景のストックを増やす必要がある。やりたいこととすべきことがたっぷりある。ありがたいことです。
 テーマは「写真を撮る愉しみ」に決定しました。今年2月28日から20回にわたって「写真を見る愉しみ」について書いたばかり。今度は撮影や制作に対する考え方について。どんな内容になるのかは、書いてみなければわかりません。

写真の苦しみ

自分の表現手段として写真を撮るようになったのは、1977年春。高校1年のとき。もう40年以上ということになります。その年の夏には「自分は写真の道で生きていこう」と決めていたわけですから、写真との出合いは僕にとってよほど衝撃的だったのでしょう。以来、浮き沈みはあっても写真中心の生活となりました。
 しかし、写真を撮っていて「楽しい」と感じたことは、ほとんど一度もないのです。これは自分でも不思議なこと。写真が完成して「うれしい」という感覚はあるのですが、作品を生み出すプロセスの中で楽しいと思ったことがない。楽しそうにすることはあっても、本当に楽しんでいるわけではないのです。
 というよりも、撮っているときは「懸命」という状態なんですね。今はデジカメの時代。楽しもうと思ったら、きっと楽しめるでしょう。フィルムカメラの時代には、ちゃんと写っているか、気が気ではなかった。たとえ、ちゃんと撮影したとしても、フィルム現像で失敗しないだろうか……。それも、気が気ではなかった。不安にとらわれ、懸命にならざるを得ない状態。写真の場合は、撮影とフィルム現像。これが2大関門。
 その点、引き伸ばし(プリント)作業は、失敗してもやり直しがきくという点では楽しめそうなもの。けれども、この作業は体力勝負というところがあって、20代の頃でも丸一日暗室に閉じこもっていると、体のあちこちが痛くなった。呼吸を通じて薬品が体内に入り、気持ち悪くもなった。
 僕は「完成」するうれしさだけを求めて写真を制作していた。プロセスを楽しむことができない。ここに、僕のちょっとした課題がありそうです。
 その点、原稿執筆は少し違っているような気がします。苦しいこともありますが、たまに楽しんで書いている自分を発見する。すいすい書いているときはけっこう楽しいのです。この違いは何なのだろう?
 15年くらい前に受けた研修の中でひとつの気づきがありました。合っているのかどうかわかりませんが、僕の中には「苦しみのパターン」というものがあるような気がする。変な話ですが、苦しいのが好き……。たとえば、締め切りに追われていると、僕は「生きている」という実感があるのですが、目の前に仕事がないと妙に不安になってしまう。僕と同タイプの人はいないでしょうか? 
 フィルムで写真を撮っていた時代は、懸命に取り組まなければ「作品」も「仕事」も納得のいくものにはならなかった。苦しみのパターンの1バリエーションだったのかもしれません。

1枚あたりのエネルギー投入量

2000年、ソーゴー印刷入社とともに、ほぼ全面的にデジカメに切り替えることにしました。2000年から2003年まではほとんど作品を撮らなかった時期。写真以外のことに苦しんでいたので、「生きている」という実感はたっぷりありました(変な話ですね)。
 2004年スロウ創刊とともに、再び風景を撮るようになりました。以前撮っていた風景とは異なる作風の風景ではありましたが、僕にとってはとても意味ある一歩となった。やはり、僕は写真とともに生きていきたいと考えている人間。そのことを改めて実感することになったのです。
 それから14年たち、2004年当時と今の写真とを比べてみると、明らかに違っていることが判明しました。写真そのものというよりも、撮り方とか取り組み姿勢に違いがあるというべきなのです。
 14年前も今もデジカメで撮影しているというのに、撮影量がまったく違うのです。5倍から10倍くらいに増えている。風景撮影では極端には増えていませんが、取材時での撮影では自分でもびっくりするほど撮っている。2時間ちょっとの取材の間に1000回くらいシャッターを押している自分がいる。36枚撮りのフィルムで撮影していたら、1000÷36=27.8。28本もフィルムを使う計算。明らかに撮りすぎですね。
 編集者も気楽なもの(?)。「一応これも撮っておいてください」みたいなことを言う。わかります。僕も編集者ならそのように指示することでしょう。デジカメの時代、コストがかかるわけでもなく、極端に手間がかかるわけでもない。
 ただ、撮り方が変わったことによって、何かが変わったような気がしているのです。2004年当時はまだフィルム撮影時代の感覚が残っていて、今よりも撮影枚数がずいぶん少ない。「こう撮っておけばよかったのに……」と思うこともあるのですが、逆に撮影量が少ないことによるメリットもある。
 それは1回のシャッターにかけるエネルギー量といったらよいのでしょうか。集中力とか緊張感といったものが当時の写真から伝わってくる。それは今ももちろんあるのですが、何かが違っている。
 フィルム時代、35ミリカメラで撮るのと、6×7(中型カメラ)や4×5(大型カメラ)で撮るのとでは、1枚あたりのエネルギー投入量に違いがあった。4×5の場合はものすごく慎重に撮っていたのです。デジカメ時代になると、この慎重さが失われ、逆に「軽快に撮る」というメリットを得た。
 どちらがよい悪いということではなく、得るものがあれば失うものもあるということ。ならば、失ったものをもう一度取り戻してみたい……。そんな考えに基づき、来月から風景の撮り方を変えてみようと思っています。
 たぶん、僕は一生写真を楽しむことはできない。ただ、「苦しみのパターン」を味わいながら撮ることで、「愉しむ」ことはできると考えています。
 あまり役に立つ話ではなかったかな? 
 「写真を撮る愉しみ」は、もう少し実用的な話を盛り込みながら、20回程度書き続けてみようと思っています。

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