第20回 撮影とは?

第20回 撮影とは?

帯広市/2018.10.30

おはようございます。
 午前中は写真セレクト作業。撮影データが大量にたまっていた。不要な写真を削除し、担当編集者に送る。3時間ノンストップで作業したら、目がくらくらしてきた。午後は真鍋庭園へ。目的は2つあった。ひとつは紅葉の撮影。もうひとつは新しい機材の使用感の確認。とはいえ、目の前には素晴らしい風景が広がっている。機材のチェックをしている余裕はない。

経済活動と作家的活動

結局のところ、撮影とはどういうことなのだろうか? 40年前からずっと同じようなことを考え続けています。しかも、40年前も今も、同じような被写体にカメラのレンズを向けている。
 雑誌や広告の仕事では、必要があってさまざまなものを撮影してきました。経済活動としての仕事には、「誰かの役に立つ」と「対価が得られる」という充実感があります。したがって、どんなものを撮影しても、「これは自分にとって重要な活動なのだ」と認識することができる。
 一方、作品づくりのための撮影では、直接的に「誰かの役に立つ」わけでも「対価が得られる」わけでもありません。個展での販売、写真集の売り上げという形では、「役立つ」「売れる」という結果が得られるかもしれない。けれども、作品の場合は経済活動的な結果を求めているわけではなく、自己充足のための活動といえるでしょう。趣味として行う写真活動に極めて近い。
 僕は長い間、勘違いをしていたようです。経済活動として写真を撮り続けるとストレスがたまる。自分を取り戻すための活動として、作品づくりを行い、個展という形で発表する……。そんなふうに考えていたのです。
 つまり、自分にとって理想的な状況は「作品制作→個展」という写真活動だと長年考えていたわけです。これが勘違いだとわかったのは、比較的最近のこと。逆もまた真なり。作品づくりが続きすぎるのもストレスではないか、と思えるようになってきたのです。
 僕の理想とする写真家人生は、個展で作品を販売して生きていく……というものでした。日本ではほぼ不可能な生き方。しかし、もしそれが叶ったとしたらどうなのでしょう? やはり、ストレスを感じるはず。それも巨大なストレスとなり、僕には受け止められなかったかもしれません。
 個展で作品を販売して生きていくというのも経済活動の一種ではありますが、雑誌・広告などわかりやすい経済活動は、自分にとって「受け入れやすい」というメリットがある。文筆業の場合、「作家になる」と「ライターになる」とでは、後者のほうが受け入れやすいに違いありません。作家になるには、突き抜けられるだけのパワーが必要となる。
 そういう意味で、経済活動と作家的活動の両方を並行して行うというのは、案外理にかなっているのではないかと思います。写真家にはけっこう多いパターンでしょう。ただし、趣味的活動ではありません。自己充足は求めますが、自己満足的な表現であってはならない。そうした制約がありますから、経済活動とは違ったプレッシャーを感じることになる。

被写体を通じて自分と向き合う

目の前に被写体があって、それをカメラで写し取る。それが撮影であるわけですが、撮影の仕方には2通りあるのではないかと考えています。
 ひとつは、被写体そのものに興味・関心があるという場合。経済活動としての撮影はこれに当てはまります。また、作家的活動であっても、被写体そのものへの関心からカメラを向ける人も多い。代表的なものとしては、自然写真や動物写真が挙げられるでしょう。
 これとは反対に「自分に対する興味・関心」あるいは「やむにやまれぬ理由」から撮影をするという写真家もいます。この場合でも、被写体に無関心というわけではありません。写真は被写体の協力なくして撮ることはできませんから、被写体に興味・関心を持ったり、美や共感を感じたり、何らかの影響を受けることになります。
 けれども、最大の関心事は「被写体を通じて自分と向き合う」というところにあるのです。写真家は被写体からある種の刺激を受けるわけですが、同時に被写体に自己を投影させることがあります。「被写体に刺激を与えている」と言えなくもない。
 このあたり、言葉では説明しにくいところ。被写体にカメラを向けているのですが、自分の映っている鏡にカメラを向けているような気持ちになることがあるのです。したがって、自分の心が病んでいるときには、どんな被写体を撮っても病んだ写真になる。そもそも、病んでいる自分にピッタリの被写体を選ぶようになる。
 したがって、作品制作に没頭すると、自分の今の精神状態を把握することができるのです。そういう活動が自分にとって心地よいのか……と問われれば、実はあまり心地よいとはいえません。しかし、自分にとってはそうせざるを得ない事情がある。もう40年以上前からそういう活動を続けてきていますから、これをやめてしまうのは「歯磨きの習慣をやめる」のと同じくらい居心地が悪くなるに違いありません。
 第1回目に述べた通り、写真を撮って「楽しい」と感じたことはなく、感じるのは「愉しい」という感覚に近い。「いい写真を撮ろう」と思って写真を撮るわけですが、撮影の目的は「いい写真を撮ること」ではないような気がしています。今の自分の心の状態を把握したり、自分がもやもや考えていることを整理したいという欲求。そうした動機から撮影する。僕が文章を書くのも同じような理由から。経済活動とは直接関係のない文章がやたら多い。
 10年くらい前にわかってきたのは、経済活動と作家的活動を融合させていけばよいのだということでした。以前は経済活動と作品を明確に分けていました。ですから、僕の作品は万人受けするものではなく、ずいぶん対象を狭く設定していた。というよりも、自分に向けて制作していたのです。
 自己充足感が得られ、しかも広く理解が得られるような(つまり経済活動にもなり得るような)写真の撮り方があるのではないか? そうした撮り方によって、自分にも自分以外の人にも役立つような写真ができるのではないか? そんな考え方に変わってきました。
 今は自分の力量が不足していて、目指す写真にはまだまだ近づいていません。これから10年間くらい試行錯誤を重ね、70代くらいになるといい感じの写真が撮れるようになっているのではないかろうか? そういう意味では「愉しみ」だけではなく、「楽しみ」もあるような気がします。
 「写真を見る愉しみ」と「写真を撮る愉しみ」。各20回で一区切りとします。次のテーマは「写真の歴史を知る愉しみ」(仮)にしようと思います。ただ、僕はあまり物知りではないので、企画倒れに終わるかもしれません……。

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高原淳写真的業務日誌