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北海道の仕事と暮らし66 世代間コミュニケーションとしての書物

北海道の仕事と暮らし66 世代間コミュニケーションとしての書物

こんばんは。
 朝から原稿執筆のための準備。部屋の片付け。写真選び。追加撮影。インデザインを使って写真を配置。資料を読み込む。そして、音声データを聞く。ようやく書くための準備が整った。と思ったら、すでに夕刻となっていた。ここから3時間か4時間努力を継続すれば、たぶん書けるのだが……。全体の15%を書いたところで作業終了とする。代わりにブログを書こうと思う。明日は早朝勝負だ。

人生2通りの謎

これから書こうとする記事は、僕にとって重要な意味を持つものとなりそうな気がしています。というのも、仕事とは何か、人生とは何かという根源的な問いに対するひとつの答がそこに示されているからです。
 人の一生を始めから終わりまでたどってみる。その人の業績をできるだけ丹念に調べ上げていく。そうすると、見えてくるものがある。調べ上げたのは、もちろん僕ではありません。何10年もかけ、多くの人々が調べたり、まとめたり、翻訳したもの。それを雑多に仕舞い込んでおくのではなく、冊子にまとめたり、会報で紹介するなど、わかりやすい形に編集されている。ここが素晴らしいところであり、僕はその恩恵によって、ひとつの答にたどり着こうとしているわけです。これほどありがたいことはありません。
 素晴らしいことに、これから書こうとしている人物については、実に豊富な情報が残されています。一番多く残しているのは、実は本人。執筆した原稿や書簡が膨大に残っているらしい。したがって、研究は今も続いており、新たに発見される資料もあるのだという。こういう生き方を僕は尊敬しています。次世代や後世の人にとって、計り知れない恩恵をもたらすものといえるでしょう。
 もちろん、その人の人生そのものが素晴らしいから、資料も素晴らしいといえるわけです。しかし、仮に平凡な人生、不本意な人生だったとしても、形に残しておくことが重要ではないかと僕は考えています。
 一昨日の書店組合新年会の席だったと思います。「大事なことって、親子間で会話をすることはまずないんだよね……」といった話を誰かがしていました。確かに、僕にも思い当たるところがあります。映画のワンシーンのように大事な話をするようなことは、まずあり得なかった(僕と両親との間では)。その結果、大事な事柄は謎のまま残されることになりました。
 謎はおもに2通りの方法によって明らかになります。ひとつは「ときが来ればわかる」というもの。だいたい、父親と同じ年代になると、いくつかの謎は解明される。こうしたことは当然父親もよく知っていたでしょうから、謎と言うほどの謎ではありません。当時の自分が単に未熟者だったに過ぎないということです。
 もうひとつは「残された手がかりを探り、推理とイメージ力を駆使して解明する」というもの。父親と僕との間にはこのパターンが非常に多く、僕はたぶん一生謎解きをすることになるでしょう。退屈しないという点ではありがたい。しかし、そろそろ解明しておきたいという謎も実は多い。
 未だに解けない謎が多いのは、残された原稿、資料が少ないからに他なりません。もしかしたら、どこかにあるのかもしれない。けれども、実家を大捜索しても出てきませんでした。後継者として知っておくべき大事なことがすっぽり抜け落ちているような感覚。18年間この気持ちを引きずっている。「これを解け」と言うのか? たまに不条理な気持ちになることがあります。

「書き残すこと」の意味

そんなわけで、僕は先代とは逆に「これでもか」というほど、原稿、資料を残そうとしています。これまでに書いたブログだけでも720万字近い。今は1日2400字平均。あと17年書き続けたら、合計2200万字を超えるでしょう。まあ、文字数よりも中身のほうが重要ではありますが……。
 2006年から始めたブログは、2036年1月まで続けてみようと思っています。30年続けたら、何か別な世界が見えてくるような気がするからです。
 これから原稿を書こうとしている人物も、僕とは違った意味で「書き残すこと」に執念を燃やした人といえるでしょう。しかも、とんでもなく根気を必要とする書物を残しています。僕のブログとは比較にならない(もちろん比較はしていません)偉大な仕事。並外れた使命感を持っていなければ、成し遂げられなかったに違いありません。
 その昔、といってもわずか30年くらい前の話。仕事現場では「見て覚えろ」とか「技を盗め」というのが当たり前だったと思います。その頃には「書き残すこと」がさほど重視されていなかった。中小企業であれば、マニュアルのない会社が圧倒的に多かったと思いますし、人材育成らしきこともほとんど行われなかったと思います。
 しかし、30年前にも50年前にも100年前にも、重要なことを記録し、文章で伝えることに熱心だった人がいたわけです。そうした人々によって、重要な歴史が今日に伝えられている。会社の場合は社史として刻まれている。これは昔も今も大切なことに違いありません。
 僕の結論としては、「次世代の人たちの推理力、イメージ力をアテにしすぎてはいけない」ということ。技術が進歩すればするほど、推理力、イメージ力は低下していく。カーナビに慣れてしまうと、道路地図を見てもよくわからない……。自分でもそう感じるのですから、スマホで育った人たちに旧世代型の謎を残しすぎるのは考えものでしょう。
 次世代の人たちには別な能力が備わっていると考えられます。明らかに僕らとは違った能力や考え方を持っているわけですから、伝える手段は平易なものであることが重要。とりあえずは、文章とか映像ということになるでしょう。
 最大の問題は、同じ日本人でありながら、日本語の文章が伝わりにくくなっていること。そもそも「本を読まない」という人の割合が増えている。これは世代間のコミュニケーションを拒絶しているに等しい。同時代に生きていれば話し言葉でも伝えられますが、50年、100年の時間差があれば、印刷メディアが最大の伝達手段となる(将来的には変わるかもしれませんが)。本は先人の知識、哲学、思想を伝えるものでもあります。ちゃんとメッセージを受け止めることが、今を生きている自分たちの義務ではないかと思います。

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