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広報と広告10 適度なわかりやすさ

広報と広告10 適度なわかりやすさ

おはようございます。
 午前中は写真セレクト作業等。午後1時からとかち経営者大学第9講。講師は北海道大学の井上久志名誉教授。「アメリカの通商政策と経済のゆくえ」と題してアメリカ経済について語られた。話は経済に留まらず、心理学、哲学、政治学に及び、味わい深い話だった。4時半帰宅。夕食後、書斎の片付けをしようと試みるが、パソコン内の整理で終わってしまった。

「極端なわかりやすさ」の落とし穴

昨日の講義資料を読み返す中で次の一文が気になりました。
 「現実の世界の不安や緊張感に耐えられなくなった大衆は、一気に問題を解決してくれそうな虚構の世界への誘いに逃げ込んでしまう」
 経済学の講義ではありましたが、話の相当部分をポピュリズムと米中関係が占めていました。むしろ、経済以外の話に興味深いものを感じました。「わかりやすさ」というものは疑ってかかるべきだ……。そんな話もありました。
 これを広報と広告という観点から捉え直すと、どういうことになるのだろうか、僕は考えていました。広報も広告もわかりやすく表現することが求められます。たまには、わざとわかりにくく表現して、消費者や社員を煙に巻くようなこともあるかもしれません。しかし、通常は「いかにわかりやすく伝えるか」「どうしたら伝わるのだろうか」と考えながら、広報や広告ツールはつくられているはず。
 わかりやすさは重要。ただし、「極端なわかりやすさ」は疑ってかかるべきではないか? 僕はそんな結論に至りました。ポピュリストの言葉の使い方を見るとよくわかります。極端なまでに白黒をつけたり、敵味方をハッキリ分けてしまいます。物事を伝える際、断定的に話しますから、さも自信がありそうに見える。
 ほとんどの人は「世の中はそう単純ではない」とわかっているはずなのに、安易でわかりやすい結論に飛びついてしまうのはなぜなのか? 「虚構の世界への誘い」というものは、現実の不安や緊張感を忘れさせてくれるものなのでしょうか? このあたり、僕はよくわかりません。物事の片側を見るだけで、全体像がわかるはずはない。いつもそう考えています。
 とはいえ、僕も偉そうなことを言える人間ではありません。何年かに一度、もしかすると数ヵ月に一度くらい、安易なでわかりやすい結論に飛びついてしまうことがあったような気がします。企業経営者の場合、そうした意思決定を行うと、その後、長い間苦労することになります。大きなものでは数年に一度、小さな意思決定ミスはときどき起こしている。やはり並人ですね。僕もよほど気をつけなければ、ポピュリズムの罠にはまってしまう危険があると自覚すべきでしょう。
 世の中がますます複雑化しています。と同時に、情報流通量が爆発的に増えている。そんな中、人々は情報を瞬時に処理するような日常業務、日常生活を送っています。「わかりにくい情報」というものは、廃棄されるか、保留というフォルダに入れられるでしょう。保留分がたまりすぎると、わけがわからなくなる。「なかったことにしてしまいたい」という欲求が高まる。その結果、「一気に問題解決してくれる虚構の世界」が魅力的なものに思えてくる……。そんなプロセスになっているのかもしれません。

決めつけないこと

自分の意思決定を明確にし、確実に一歩踏み出すには、ある程度のわかりやすさが求められます。よくわからないまま行動するのでは、不安でたまりません。ただ、「わからない部分がある」ことを行動しない理由にすべきではない。そのようにも思っています。行動するうちにわかってくる。行動力のある人は、そういう経験を無数に持っているに違いありません。
 社会が複雑化し、わからない部分が増えていく。そんな不安を抱えやすい時代。したがって、考える、仮説を立てる、実践する、改善する……といったことを絶えず行っていなければなりません。「まったく行動しない」または「考えずに行動する」というのでは、自立した人間とは言えないのです。
 会社組織はもちろんのこと、一個人であっても健全な情報発信力を持つことが極めて重要になっているのではないかと思います。個人の発する情報が与える影響は、本人が意識する以上に大きいことがある。不確かな情報を発信することでパニックを引き起こしたり、風評被害につながるといったケースが増えているのは誰もが知るところ。情報を正しく取り扱う。これは知識社会の今日では必須のスキルといってよいのではないかと思います。
 我が社は情報発信を重要な仕事としています。その中で気をつけているのは「決めつけない」ということ。注意して取り扱っている言葉として、「絶対」「ありえない」「ダメだ」などがあります。結論を単純化して、残された可能性を切り捨ててしまうような言葉は極力使わないようにする。これは僕が個人的に気をつけていることですが、おそらく他の編集者も同様でしょう。
 このため「……かもしれない」「……気がする」「……ではなかろうか」といった語尾が増えていくことになります。多用しすぎると、自信のなさそうな文章になりやすい。けれども、適切に使用すれば、読み手に対して特定の解釈を強いることなく、メッセージを伝えることが可能になります。
 雑誌にしろ、社内報にしろ、ブログにしろ、僕個人としてはわかりやすく自分の考えや物事を伝えたいと思っています。ですから、可能な限り平易な言葉を使って文章を書くようにしています。しかし、社会が複雑であると同時に、僕の頭の中も十分整理されてはいませんから、時折わかりにくい表現の仕方になってしまうことがある。
 我が社の社員に期待するのは、わかりにくい部分を自分自身の思考力と解釈力によって補おうとすること。社内には僕が言葉で表現できないことをわかりやすく翻訳して、部下や後輩に伝えてくれる人もいます。お互いに、自分の至らない部分を補完し合えるようになれば、一人ひとりは不完全であっても、組織全体としての情報発信力、コミュニケーション力が高まっていくに違いありません。

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