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広報と広告17 勉強会「写真家的文章作成技法」

広報と広告17 勉強会「写真家的文章作成技法」

おはようございます。
 朝は新入社員研修の準備。パワーポイントのデータにアニメーションをつける作業。10時から新入社員研修第7講「自己成長と人材育成」。オブザーバー参加の先輩社員の都合もあって、研修の順番は一部入れ替わることとなった。昼は印刷工業組合の理事会。1時半、第8講「我が社の理念と価値観」。3時過ぎ終了。続いて、帯広経営研究会総務広報委員会のプレゼン準備。こちらもアニメーションをつける作業。追加ページもあった。ひと通り完成させてから夕食。
 7時からS社にて総務広報委員会の勉強会。テーマは「写真家的文章作成技法」。文章が書けるかどうか? それは「コンテンツがあるかどうか」と「意欲があるかどうか」。この2つだな。講座を担当しながらそう確信した。

視覚的に文章を評価する

「写真家的文章作成技法」というヘンテコなタイトルをつけてしまいました。「誰でも書ける」という意味が半分。もう半分は「門外漢的なアプローチ法」を伝えたいという思いでつけたタイトルです。
 ただ「写真家的」な技法は2つだけしか紹介することができませんでした。僕は自分で思っている以上に理屈っぽいところがあるのでしょう。写真と共通する部分もあるのですが、無理に写真的アプローチを当てはめると、意味の通じる文章にはならないような気がします。
 ただ、中級編で述べた「相似形」という手法は、写真にも文章にも、そして企業経営にも応用可能ではないかと僕は考えています。「AとBは似ている」。単純にいえばそういうことになります。これを空間的に捉えたり、時間軸で考えたりするのです。そうすると、さまざまな仮説が生まれてくる。現実の出来事を説明する際に、相似形を用いて、今起こっている物事の背景を説明したり、これから起こることを予測したりする。そんな際、相似形はユニークなエビデンスとなるのです。
 もうひとつ紹介した写真的アプローチは、自分の書いた原稿をプリントアウトして眺めるという、あっけないほど簡単な自己評価法。読むのではなく、「眺める」のがポイントです。漢字が多いと単純に「黒っぽい原稿」となる。また、改行が少ないと、文字が窮屈そうに見える。
 見た目の印象。スロウ編集部内でもあまり話題に上ることはないのですが、僕は案外重要ではないかと思っています。特に、改行に関しては個人差があります。僕は段落ごとに息継ぎをすることがあるので、改行の少ない文章を読むと呼吸がちょっと苦しくなる。逆に頻繁に改行している文章では過呼吸になる……。なんてことは、もちろんありません。ですが、視覚的に窮屈な原稿は避けるべきではなかろうか? スロウの場合は、誌面レイアウトに余白が多いため、窮屈感はさほどないとは思いますが。
 文章を書く仕事をしている人であれば、漢字問題も改行問題もだいたい許容範囲内に収まっているはず。それ以外の方の場合、ときどき「やけに漢字変換率が高い」と思われる文章に遭遇することがあります。「ありがとうございます」が「有り難う御座います」といった具合になっている。これは手書きの時代にはまずなかった現象といえます。パソコンが勝手にそう変換してしまったのかもしれません。

手書きとパソコンの逆転現象

これはパソコンの前、ワープロの時代から起こっていた問題です。機械が勝手に変換してくれますから、ついそのまま漢字を使ってしまう。自分では書けないような漢字まで変換してくれるのです。便利といえば便利。ですが、あるときハタと「自分は機械に使われてしまっているのではないか?」と気づくのです。
 文章を書いているのは紛れもなく「自分」なのですが、その中に機械の意志が混じり込んでしまっている。文章を自分の力で100%コントロールしているわけではないのです。
 ワープロ全盛期、日本人の漢字力が低下したのではないか……と問題になったことがあります。僕も「手書きではまともな書けない」という人間になってしまいました。
 10数年前、僕の受講した研修の中に、文献レポートを提出する課題がありました。文字数は忘れましたが、けっこう長文だったと記憶しています。それがなんと「手書き限定」だったんですね。受講生はみな苦労したと思います。おそらく、多くの人はパソコンで原稿を書いてから、手書きで清書(?)していたに違いありません。考えてみるとおもしろいですね。その一昔前には、ワープロ、パソコンの使えない上司が、部下にパソコンで清書させるという時代があったのです。
 この奇妙な逆転現象。文献レポート以外に、今もたまに見かけることがあります。雑誌や印刷物の見出しを手書きにしたり、経営理念やスローガンといったものを筆字にして掲示したり……。いろいろありそうです。
 パソコンに依存しすぎると、自分という存在が危ういものとなってしまうかもしれません。僕はふだん一太郎で原稿を書いています。入力ミスをしょっちゅう正しく直してくれるので非常にありがたい。推測変換もよく使います。「よ」と打ち込んでTabキーを押すと、「よろしくお願いします。」と変換されたりする。メールではいつもお世話になっている機能。ただ、多用するうちに無味乾燥な文章となっていることに気づくことがあります。やはり、人間が機械をちゃんとコントロールしなければなりません。
 このあたり、デジタル写真とフィルム写真との関係に似ているところがありますね。カメラが自動的にいい感じの画質に変換してくれる。自分の意図とは無関係にいい写真ができあがってしまうこともあるわけです。これを「いい写真」といってよいかどうか? 判断の分かれるところでしょう。
 最終的には「コンテンツ」と「意欲」の問題ではないかと思います。書きたいことがあって、どうにかして文章としてまとめたい。それがあれば、技術は見劣りしても、意味ある文章、伝わる文章を書くことができるはず。文章にしても写真にしても、技術が先行してしまうのは危ういことだ、と僕は考えています。

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