おはようございます。
午前中2時間、午後は3時間ほどパソコンに向かう。まだ量産体制には入ってない。謎を解明しながら書き進んでいる。午後4時からは休日的な活動。ここ3日間、同じような時間の使い方をしている。
10連休も今日が最終日。我が社のみんなは貴重な連休を有意義に過ごしているだろうか?
感動とびっくり
原稿を書くためにテープ起こししたテキストを読んでいて、気づいたことがありました。その中には「びっくり」という言葉が頻繁に登場しているのです。
原稿を書く際、僕は何気なく「ビックリ」と片仮名に変換して書いてきましたが、少ししっくりしないものを感じていました。この原稿においては「ビックリ」でも「吃驚」でもなく、「びっくり」が適切であるに違いない。ひと通り書き上げてから、変換し直すことにしようと思っているところです。
片仮名と平仮名とではどう違うのか? これは僕の感覚的なものなので、一般的には当てはまらないかもしれません。それはアクションの大きさの違いですね。「ビックリ」のほうが動きが激しいように感じられるのです。
もともと「びっくり」は、「びくり」が促音化した(つまった)言葉。わずかな動きを表しているんですね。だから、僕の印象では、驚いてわずかに動くのが「びっくり」で、大袈裟に驚いて椅子から転げ落ちるようなのは「ビックリ」なんです。ちなみに、漢字の「吃驚」はふだん使ったことはありません。使い分けるとしたら、やや時代がかった感情表現に適した言葉でしょうか。あくまでも僕の勝手なイメージですが……。
それはともかく、びっくりするという感覚は人生を豊かなものにする上で、不可欠なものではないかと思うことがあります。驚きの少ない人生よりも多い人生のほうが豊かである。そう言い切ってよいかどうか、本当のところはわかりません。けれども、びっくりする経験の少ない人よりも多い人のほうが、楽しそう、または充実しているように思える。
「びっくり」には困ったびっくりと楽しいびっくりがあるはずです。正反対の出来事ですが、共通しているのは、「突然」だったり、「想定外である」という点。意外性がなく、単調な日々を送っていると、びっくりするような出来事はあまりやってこない。地震が起こってビックリするといった程度かもしれません。
「感動」と「びっくり」は近い関係にある言葉でしょう。多くの人は感動を求めていますから、日常の仕事や暮らしが単調になっていくと、感動体験をしたくなってくる。一番手軽なのは映画やドラマを見ることでしょうか。今回のように10連休もあれば、レジャー活動の中に感動やびっくりを求めることができる。
ただ、僕が感じるのは、自ら求めて「びっくり」を体験するのと、本当に偶然やってきた「びっくり」とでは、驚きの質と大きさが根本的に違っているのではないかということ。前者の場合は「人工的につくられたびっくり」であり、後者はいわば「天然のびっくり」です。どちらも人生を豊かに彩るものであることは間違いないものの、天然物のほうがありがたいような感じがします。
日常の中に「びっくり」を見いだす
原稿を書くために丹念にテキストを読んでいくと、僕は新たな発見をすることとなりました。
普通の人であれば、この場面で「びっくり」はしないのではないか? そう思ったのです。日常の何気ない出来事の中に「びっくり」を感じている。これは感性豊かだからともいえますし、毎日を本気で生きているからだ、ともいえそうです。仕事に熱心になればなるほど「びっくり」する回数が増える。そんな仮説が成り立つに違いありません。
「おどろいてゐる自分に おどろいてゐる自分」という、河井寛次郎の書を思い出しました。
びっくりすることは、多くの芸術家、作家にとって創作の原点であるはず。同じことが企業経営者にも当てはまります。日常のささいな出来事の中に隠されている「特別なもの」に焦点を合わせ、びっくりしたり、感動する。経営者やリーダーには必要な能力ではないかと思います。すぐれた経営者の場合は、特にその能力が突出していて、感動を発掘する能力のようなものを持っている。びっくりや感動を社内で共有するようになれば、感動的商品・サービスを生み出す企業になっていくような気がします。
もうひとつ、ある特定のパターンにも気づきました。これはずっと以前から気づいていたことでもありますが、テキストを読み返し、さらに音声データを聞き直して、改めて感じました。最初に「びっくりしましたね」と言ってから本題に入ることが多いのです。
これは驚きと感動を交えながら相手に伝えたい、という気持ちの表れなのかもしれません。というのも、僕も同じような手法で話をすることがあるのです。「ここがおもしろいんです」と言ってから、本題に入ることがある。僕の場合、回数としては多いとはいえません。ただ、本題をいきなり話すとおもしろくなりそうにない場合がある。いろいろ話してやっとおもしろくなるような話の場合、最初におもしろい話であることを伝えておく。いわば時間稼ぎですね。
聴き手に対するちょっとしたサービス精神から使われる「びっくり」という表現もあるのかもしれません。
ある程度落ち着いた年齢になると、身振り手振りとか、大袈裟な口調で感動を表現することができにくくなるものです(人にもよりますが)。そんな際、「びっくり」というのはアクションの代わりに活用できるでしょう。
ただ、それ以上に感じることは、ささいな出来事や平凡に見える日常に対して、びっくりできるような瑞々しい感性を持ち続けることでしょうね。サミュエル・ウルマンの詩「青春」のような生き方をすることが大切だ。原稿を書きながら、ますますそう感じるようになりました。