
おはようございます。
午前中は写真選び。これまで撮った風景写真の中からテーマに合ったものを数点選び出すという作業。これをもっと効率化できないものかと思っているのだが、今のところは記憶を頼りに探すか、ローラー作戦を展開するしかない。ローラー作戦の場合は眼精疲労を覚悟することとなる。昨日は後者だった。午後は仕事をあきらめ、買い物へ。必需品なのに手に入らなかったものを買うことができた。夕方の1時間半を使って、講演の資料をまとめる。日焼けした腕がまだヒリヒリしている。夕食は冷や奴、ヤキトリ、ところてん。真夏の陣容でまとめてみた。が、家の中は思ったよりも冷え込んでいた。まだ春だと思った。
ストレートで味わう冷や奴
19年前、帯広にUターンしたとき、感動したことのひとつは「豆腐がおいしい」ということでした。それまで東京で食べていた豆腐がイマイチだったせいか、帯広では普通の豆腐なのに豆の味がしっかりしていることに驚いたのです。
僕は豆腐事情に詳しいわけではありません。東京でもきっとおいしい豆腐が食べられるはず。ただ、当時の僕は認識不足もあって、「今どきの豆腐とはこんなもの」とほとんどあきらめていたのです。だから、充填豆腐でもさほど抵抗なく食べていました。味のないのが豆腐。そんなとんでもない誤解をしていました。
豆腐の本当の味に気づいた。というよりも、思い出した。これは大きいですね。豆腐の味だけを取り上げてみても、十勝に移住する価値は十分にある。そう断言してもいいくらいです。今、「十勝」と書きましたが、おいしい豆腐は十勝だけとは限りませんね。十勝管外にも気になる豆腐屋さんがあって、今度取材してみようかな、と思っているところです。
ただ、大豆という点ではどうでしょう? やはり十勝産ではなかろうか。僕のイメージによるところもありますが、「音更大袖振」と書いてあったりすると、それだけでもおいしいような気がします。
もっとも、最近よく食べている豆腐は別な豆だったような気がします。寄せ豆腐。丸いからでしょうか? 何となく気に入っていて、冷や奴とで食べるときはこれ。味噌汁には木綿、麻婆豆腐には絹ごしを使うことが多い。
で、問題はここからなのです。僕は決して豆腐通というわけではありませんが、おいしい豆腐はそのまま味わうに限る、という考え方を持っています。考え方というよりも、そのほうが実際においしいと感じている。だから、おいしい豆腐に醤油はかけない。醤油の助けを借りなくても、すでに十分な味を持っていると思うのです。
このあたり、我が家では若干の見解の相違があって、それぞれ自分の食べ方を守り続けています。僕には素材原理主義のような側面がありますから、かつお節やおろし生姜を乗せるのも躊躇することがある。豆腐はすでにひとつの料理として完成している。そう思ってしまうのです。この芸術的領域にまで高められた味は、何人たりとも冒すことはできない……。ちょっと言い過ぎですね。十勝の豆腐の味と釣り合うような醤油であるならば、OKとしましょうか(けっこう軽い書き方をしてしまいました)。
素材そのものに付加価値がある
僕は醤油味のものが好きなんですが、好きだからこそ「ほとんど使わない」ということがあります。具体例としては、冷や奴と納豆。おいしい納豆には醤油をほとんどかけない。これはドクターに塩分を制限されているからではなく、自分の味覚に忠実に行動した結果といえます。素材の味をすべてキャッチしようと舌の感覚を研ぎ澄ませていったら、醤油はほぼ不要となった。納豆の場合、ご飯と一緒に食べるときには醤油をかけますが、納豆をストレートで食べるときにはかけません。混ぜもしない。邪道と言われるかもしれませんが、このほうが一粒一粒、しっかりと味わうことができる。
ただ、気持ちとしては醤油の塩分も求めていますから、脳内で醤油の味を再現するようにしています。だから、醤油は使わなくても、醤油差しは目の前にあるほうがイメージしやすいですね。「梅干しを見ただけでご飯を食べることができた」というのと一緒。今の時代、そんな食生活を送っている人はいないと思いますが、味覚トレーニングを重ねると、昔に戻っていくことになるのかもしれません。
素材の味が楽しめるというのは、実に幸せなことといえます。上質な素材だからこそ、素材そのものを味わいたくなる。もちろん、料理人の技術を否定するものではありません。素材の味をさらに引き出す料理や素材の弱点を補う料理もあるでしょう。それも食べる楽しみのひとつ。豆腐に関していえば、すでに完成形として売られていますから、僕としてはそれ以上に望むものはないのです。
料理に限らず、僕らの仕事においても、「素材のよさ」を感じることがしょっちゅうあるものです。素晴らしい風景に出合ったときには、余計な技術は不要となるでしょう。カメラを向けてただシャッターを押すだけ。それでも、「誰が撮っても同じ」ということにはなりません。自分の視覚体験と照合しながら撮影しますから、微妙にフレーミングや絞り・シャッター速度などの選択が違ってくる。結果として、同じ写真になることはありません。
文章表現にしても、日本語技術を駆使すればするほど「中身が薄まってしまう」ことがあるものです。素材(伝えたい中身)がちゃんとしていれば、味付けはほどほどでいい。中身の乏しさをカバーしようとして、難しい表現を試みると、何となく人工的な味付けの文章になってしまいます。
北海道は「原材料の供給地」とか「日本の食糧基地」と言われて、付加価値力が低いと思われているところがあります。ですが、素材そのものに十分な付加価値があるという事実にも、もっと目を向けなければなりません。そして、これだけの素材に囲まれている北海道は、やはり十分豊かなのだ……。冷や奴を食べながら、僕はそう実感するのでした。
