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北海道の仕事と暮らし127 写真の神秘性

北海道の仕事と暮らし127 写真の神秘性

おはようございます。
 朝6時半出発。9時半旭川着。取材は10時から。今も銀塩写真で仕事をしている写真館。しかも、使っているカメラは8×10(エイト・バイ・テン)。フィルムのサイズは203.2×254ミリ。現像は1枚ずつ行うことになる。途方もない労力をかけて1枚の写真ができあがる。デジカメに慣れすぎている僕とは対極にある手法。銀塩写真、とりわけ印画紙のよさを再認識する取材となった。
 取材の余韻に浸る余裕はない。昼過ぎ、帰途につく。昼食を食べるかどうか葛藤する。この迷いが15分程度の時間ロスにつながる。結局、車の中で食べることにした。食後は眠くなり、20分仮眠。4時、北海道ホテルに到着。5分遅れて日本政策金融公庫帯広中小企業公和会役員会に出席。4時半、総会。5時半、講演会。講師は北海道十勝総合振興局局長の三井真氏。「なつぞらの舞台 とかチカラ世界へ」というテーマ。赴任から1年あまり。精力的に活動している様子が伝わってきた。6時40分からは懇親会。9時頃帰宅。

8×10

デジタルカメラの進歩には著しいものがあり、見方によってはフィルムを超えたといっても差し支えないと思います。ただ、それは通常のフィルムサイズの場合。8×10に匹敵するデジタルカメラはたぶんない。
 デジカメが「まだ仕事では使えない」と思われていた時代、たぶん1990年代まで、画質を左右する最大の決め手はフィルムサイズにありました。35ミリよりもブローニー(中判カメラ)。それよりも4×5(大判カメラ)。そして、最高峰として8×10がありました。僕が使っていたのは4×5まで。仕事では使わず、もっぱら個展用の作品のために使用していました。
 画質を極限まで追求すると8×10ということになるのでしょうが、パッと見ただけでは4×5と8×10の違いはわからないはず。近年のデジカメも素晴らしい画質のものがありますから、大伸ばししない限り、その区別はつきにくい。印刷物であれば、まず区別はつかないと思います。
 また、インクジェット用の紙も、印画紙と同じような質感のものが多数つくられています。本当に区別がつきにくい。銀塩写真とデジタル写真。銀塩写真とはどういうものか、よく知っている人でなければ両者の違いはわからないのではないでしょうか。
 そんな時代の中で銀塩写真を撮り続ける意味はどこにあるのか? 単純に考えると、そんな疑問が湧いてくるかもしれません。
 しかし、僕の41年の写真人生のうち、24年間はフィルム写真一辺倒でしたから、その意味はよくわかります。そもそも「フィルム写真」なんて言葉はなかった。写真はフィルムで撮り、印画紙に焼き付けるものだったのです。
 写真を志した人の多くは、銀塩写真の生み出す「何か」に取り憑かれて、写真中心の生活を送ることとなった。「何か」が何なのかわからず、悶々としながら写真を撮り続ける。雑誌や個展で発表したからといって、「何か」が何なのかわかるわけではなく、さらに熱心に撮り続け、暗室の中で黙々と現像や引き伸ばしを行う。酢酸のにおいで、次第に頭がボーッとしてくる。もはや、自分が何について考えていたのかもわからなくなってしまう……。
 賢明な写真家の場合は、もっと違ったプロセスを経て、何かしらの結論に至るのかもしれません。僕の場合は、酢酸で頭がやられ、水洗作業で腰を痛めることとなりました。今はデジタル100%ですから、20年前よりも頭はクリア(本当かな?)、腰痛は劇的に軽減しています。

炭火と電子レンジの違い

もっと楽な方法があるというのに銀塩写真(フィルム写真」の道を進み続ける。そこには何か強烈な理由があるわけです。僕はそこから離脱してしまいましたから、知った風なことしか言うことはできません。
 取材の中では「レコードとCDの違い」という言葉が出てきました。アナログとデジタル。もっともわかりやすい説明といえます。僕の感覚では、もっと大きな違いがあるような気がするなぁ……。炭火と電子レンジ。労力の違いという点でいえば、このほうが適切な例えのような気がします。
 そして、決定的な違いは何なのか? ここは記事を書く上で一番のポイントになるところですが、少しだけ記述しておきたいと思います。
 それがタイトルにある「写真の神秘性」なんですね。銀塩写真にあって、デジタル写真に乏しいもの(ないわけではありません)。錯覚や思い込みと片付けられそうではありますが、銀塩写真にはどこかしら神秘性があるわけです。写真家が写真を撮るという点において変わりはない。けれども、銀塩写真では写真家ではない何者かが撮影に関わっている……。そんなふうに感じることがあるのです。
 それは被写体なのかもしれませんし、光そのものなのかもしれない。特に、大判カメラで撮影されることになると、被写体となった人はある種の緊張感を覚えることとなるでしょう。意識をするだけではなく、「いい写真が撮れてほしい」という祈りのようなものが込められる。写真家と同じ気持ちになる。写真家と被写体の気持ちが一致したり、逆に葛藤・対立することによって、写真家の意図を超える写真が誕生する。
 これはデジタル写真でもあり得ることですが、銀塩写真のほうがそうなりやすい。デジタル写真では撮るほうも撮られるほうも、緊張感が薄い。とりあえずシャッターを押してみよう……というところから撮影が始まるからです。
 さらに言えば、銀塩写真の神秘性は暗室作業によって最高潮に高まります。長時間暗室にこもっていると、自分が錬金術師になったような錯覚に陥ることがある。印画紙を現像液に浸し、じわじわと像が浮かび上がってくる過程がたまりません。大袈裟に言えば、「自分は今、新しい風景を創造しているのだ」といった気持ちになるのです。
 そして完成させた写真を見ると、自分の写真でありながら、自分の写真ではないと思うようなことが起こりうる……。
 今日はこのあたりを解明しながら、原稿を書く日にしようと思います。

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