
おはようございます。
午前10時来客。亡くなった同級生T君の写真を大量に預かった。偲ぶ会で流すためのスライドショーを作成することとなった。昼は組合理事会。やや難しい話。市役所経由で帰宅。少し仕事をしてから同友会事務所へ。4時、中小企業家同友会とかち支部四役会。4時半から幹事会。やや複雑な問題があって、会議は長引いた。6時50分終了。H社に立ち寄ってから帰宅。
「対等」という価値観
昨日は「やや難しい話」と「やや複雑な話」の2つがありました。「やや」と添えたのは、よく考えるとそんなに難しくも複雑でもないな、と思ったため。よりよい結論を導き出そうと思えば、さほど困難ではない。そんな問題が世の中にはたくさんあるものです。ただ、直接的な当事者とか、深く問題に関わるようになると、シンプルな結論にたどり着くのが困難になる場合がある。自分を客観視することが重要ですね。
僕は午前中、同級生について考えていました。といっても、時間にすると30分程度ですが。亡くなったT君も含め、僕の同級生を見渡すと昔も今も変わらない特徴があるような気がしています。僕のまわりだけ、奇跡的にそうだったのか? このあたりがよくわからない。高校のときだけではなく、大学に入ってからもだいたい同じようなものを僕は感じていました。ただ、大学の場合は、同級生といってもやや年齢差のある人も含まれていますから、わずかながら違いを感じることもありました。
僕が同級生に感じている特徴というのは、「偉そうにする人がほとんどいない」ということでした。これは僕らの世代の特徴と言ってよいのだろうか? 場所や立場が変われば、違ってくるのでしょうか? 僕の同級生たちは40年近くたっても、まったくといってよいほど変わらない。同じような雰囲気を漂わせている。個人差はあるものの、上下関係意識に支配されていない人が多いような気がします。
あくまでも「気がする」なので、ちゃんと裏付けがあっての話ではありません。日本中、そうなっているという意味ではありませんので、念のため。
ただ、子供の頃の視覚体験が、僕らに何かしらの影響を及ぼしているのではないかと考えています。テレビでは連合赤軍事件が強烈な印象だったし、国会討論会もときどき見ていた。テレビの中ではいつも対立を目にしていた。「何かが違っている」とずっと考え続けていた子供時代でした。
いつの日か、対立のない世の中、本当に平和な世の中になるのだろうか? そんなことを考える子供時代でしたから、これが僕の価値観を形成する上で大きな影響を与えたのではないかと考えています。たぶん、同年代の多くの人たちも、僕と同じような視覚体験を持っていて、程度の多少はあっても影響を及ぼしているに違いありません。
だから、今でも僕は「対等」ということを自分の生き方や人との関わり方では最重要概念としていますし、「対立」を回避するためにはどうしたらよいのか、必ずといってよいほど考える。それが、「弱さ」や場合によっては「ずるさ」につながる場合もあります。勝者のない対立を見ると、いち早く回避行動をとるべきではないかと思ってしまいます。
損得を超える
対立が起こるのは、「正しいかどうか」という思考に支配されているからに他なりません。
正しいかどうか。これは当然よく考えるべきことです。正しい考え、正しい選択、正しい行動を心がける。人としてはそうあらねばなりません。
ただ、「自分の考える正しさ」を人に押しつけると、そこで対立が発生する場合がある。それでも、対等な関係の中での対立は、比較的解決しやすいもの。一方、上下関係という幻想に支配された中での対立は、ちょっと込み入ったことになりやすい。感情が増幅されることもあれば、その場に居合わせた人に飛び火することもあるでしょう。こんな場合は、むしろ上下関係の頂点に君臨するような人がいて、「まあまあ」とか「静まれ」と言ったりすると、すんなり対立が収束に向かっていくものです。今は、絶対的な頂点が存在しない時代。それが問題を複雑にしているのかもしれません。国際情勢を見ると、そんなことをときどき考えます。
もうそろそろ「正しいかどうか」の時代は終わりを告げている。そう気づく人が増えてこなければなりません。
この点では今の30歳前後の人たちに、僕はシンパシーを感じることがあります。判断基準が「正しいかどうか」だけではない。人によって多少の違いはあるものの、何か別な基準があって意思決定をしている。そう思われるのです。
そもそも「正しいかどうか」で判断したならば、ソーゴー印刷という会社は選択しないでしょう(そう言ってよいのか?)。経済的合理性では動いていない部分のある我が社ですから、正しい評価としては「矛盾に満ちた会社」ということになるはずです。矛盾に満ちているのに、ある種の一貫性を見いだすことのできる人が我が社の門をたたくことになります。あるいは、見いだしてはいないものの、表現不可能な魅力のようなものを感じて入社するという人もいます。もちろん、「自分は幻想を見ていた」と思って会社を去る人もいる。すべての人にとって魅力的な会社は存在しません。
僕は心の中では「アーティスティック経営」を目指しています。だから、正しさよりも美しさを優先させたいと考える傾向にあります。「美」という言葉は「羊」と「大」からできていて、「大いなる犠牲」といった意味が込められています。羊はいけにえに使われた動物。
もちろん、単純に「犠牲的精神で仕事をする」と考えているわけではありませんので、誤解しないようお願いします。美しい仕事とは、「損得勘定だけではない仕事」のこと。正しい仕事だけをしようとすれば、経済的合理性だけが判断基準となる(「正しさ」の定義にもよりますが)。損得を超え、地域のため、世の中のためになる活動を優先させれば、自然に「美しさ」が見えてくる。これを会社レベルでも個人レベルでも行っていくこと。全員に求めることはできないものの、共感できる人を社内に増やしていきたい考えています。