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北海道の仕事と暮らし132 高校時代と忘却力

北海道の仕事と暮らし132 高校時代と忘却力

おはようございます。
 午後2時、インザスイートへ。今年4月に亡くなった同級生T君を偲ぶ会。ご遺族、かつての同僚のほか、高校時代のクラスメートの約半分が集まった。一番遠いところではタイのバンコクから。国内では名古屋、東京、函館からも。3時から5時までが偲ぶ会。6時から二次会。二次会は完全にクラス会となった。僕は三次会まで参加。たぶん10人以上、四次会まで進んだようだ。みんなすごい体力。そして酒豪揃いだ。

忘却力と写真力

それにしてもみんな記憶力抜群だな……。高校時代の細かいところまでよく覚えていることに驚きました。僕はどうかというと、ほとんどといってよいほど覚えていない。帯広にUターンして19年たち、同窓会にも顔を出しているというのに、少しずつしか記憶がよみがえらない。クラスメートの全員の顔と名前が一致しない。昨日の会話を聞いていると、何人かがものすごくピンポイントなエピソードについて、ディテールに至るまで話している。信じられない記憶力。僕のエピソードにしても、当人である僕が覚えてない。みんなの記憶力が抜群なのか、僕の忘却力が人並み外れているのか? もしかしたら、後者なのかもしれません。
 僕の高校時代の記憶はかすかなもの。視聴覚準備室という職員室の分室のようなところにあった暗室。ここでの記憶が一番多く残っています。2畳ほどの狭いところに引伸し機と流しがあって、ここで全紙サイズまでのプリントを行っていた。酢酸のにおいと赤いセーフライト。当時使っていた印画紙は「月光」だったはず。1年生の頃は光沢のバライタ。フェロタイプを使っていました。2年生頃からRCペーパーを使うようになり、「フジブロWP」だったのではないかと思います。イルフォードを使うようになったのは大学に入ってから。
 放課後は暗室に入り、夕方は定時制のパンを買って食べるという毎日。午前の休み時間に早弁をして、昼は学食へ行っていましたから、一日何食食べていたのだろう? 毎日5、6食食べていたのかもしれません。
 今となってはどうでもいいような記憶しか残っていない。クラスメートとの交流が少なかったのだろうか? そのことすらよく覚えてない。そもそも、教室の中での記憶がほとんどない。ただ、昨日のようにみんなの顔を長時間見続けていると、断片的な記憶が少しだけよみがえってくる。たぶん、僕にも教室の中での視覚体験があるはず(無事卒業できなたのだから当然ですが)。思い出せなくても、感覚としてはどこかに残っていて、10代の頃の自分も、今の自分の何かを形成しているに違いありません。
 もしかしたら、僕は昔から自分の持っている困った能力について十分自覚していたのかもしれません。あえて「能力」という書き方をしますが、いうまでもなく「忘却力」のこと。重要な視覚体験をしても、見事なほどそのことについて忘れてしまう。だから、写真力を伸ばさねばならなくなった。そう考えられなくもない。芸術的センスがあって写真の道に入ったのではなく、欠落しやすい自分の記憶を補強するために写真を選んだとも考えられます。
 ただ、当時の自分はそんなことにはまったく気づいておらず、ひたすらアーティスティックな写真を撮ろうとしていた。コンクリートの壁、マンホールのフタ、木の根っこ、石ころ……。そんな被写体が多かった。それもひとつの視覚体験ではありましたが、本当はもっと別なところに目を向けるべきでした。無駄なところに情熱を傾けていた40年前。まあ、高校生とはそういうものなのかもしれません。

今の自分を形づくっているもの

僕らは今50代後半という年代なので、当然ながら外見的にも立場的にも内面的にも50代であるわけです。若く見えるか、老けて見えるか、個人差はあるにせよ、みんな50代という共通認識は持っている。
 僕が不思議に思うのは、自分は50代でありながら、同時に10代としての記憶と感覚が残っているということなんですね。それが脳みその片隅に残っているのか、全身の細胞の中に残っているのか、そのあたりのことはよくわかりません。けれども、記憶が残っているだけではなく、人格としても確かに残っているようなのです。自分の中には10代の自分が今も存在する。
 さらに言えば、5歳頃の自分もいますし、20代の自分もいるわけです。ふだんは50代の自分として過ごしていても、何か刺激を受けることで、大昔の自分が呼び覚まされる。そんな感覚、たぶんみんな持っているのではないかと思います。
 僕は雑誌スロウ創刊以来、「記憶の中の風景」という連載を続けていますが、それは「自分の過去の視覚体験が、今の風景の見え方に影響を及ぼしている」という意味合いでつけたタイトルです。ノスタルジックな意味ではなく、膨大な視覚体験の蓄積が今の自分の「ものの見方」をつくりだしているということ。同じ風景を見ても、人によって見方が違っている。だから、同じ風景に向かって同時にカメラを向けても、できあがる写真は人によって違うものとなる。ここに写真のおもしろさがあるわけです。
 写真ばかりではありません。過去に積み重ねた経験が違うと、同じ現象が目の前で起こっても、解釈の仕方や対処の仕方が違ってくるわけです。まったく同じ現象なのに、肯定的になったり、否定的になったりする。人生ではここがおもしろいところともいえますし、難しいと感じることも多い。僕自身、大昔の何かが引っかかっていて、肯定的になりきれない自分やいつも同じところでつまずく自分がいます。過去に対する解釈を変える。そんな研修を何度も受けてきましたが、それだけで変わりきれるものではないようです。
 一番大事なのは、幼少期、10代、20代、30代、40代、そして今の自分が、自分の体の中で平和的に共存することなのではなかろうか? 僕に与えられた忘却力という能力は10代後半以降、写真力となっていきました。今は文章力にもつながっています。10代までの記憶が極端に少ない分、ここ10数年の出来事や考えたことについては、ものすごく詳しく文章で記録しています。すべて、必然性があってつながっている。これは僕の中では確信に近い考えとなっています。

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