
「untitled」( 1999年、Gallery・DOT) (c) Atsushi Takahara
おはようございます。
昨日は午前9時から昼までは全道経営指針委員会でした。前日同様、テレビ会議システムを使用。午後は十勝経営者大学。ほぼ一日同友会事務所で過ごしたことになります。夕方はホテルヌプカへ。開業2周年イベント。6時半頃からスロウの事例発表。ビールを2杯飲んだだけなのに、ずいぶんいい気持ちになっていました。きっと昼間、脳みそを酷使したからでしょう。
考えてみると、僕にとってスロウという媒体は経営脳と写真脳をつなぎ合わせるものなのかもしれません。「写真力=経営力」という気づきも、スロウがあったからこそ得られたもの。もっと自分を高めていけば、写真と経営を一緒に考えられるようになるのかもしれません。
今朝はもっとも根源的なテーマ「写真とは何か?」について考えていこうと思います。
混沌とした現実から秩序を見いだすもの
写真とは何か? 僕にとっては非常に重たく感じられるテーマです。
この問題について、僕は40年間考え続けています。写真を始めたばかりの頃から今日まで、ずっと考えている。それなのに、まだ暫定的な答しか得られていません。写真生活を終える直前まで(つまり死ぬまで)考え続けることになりそうな気がします。
たぶん、写真人生を送っている人は、一生この問題から逃れられないのではないでしょうか?
写真というものは、神秘的なメディアです。デジタル写真が普及したことにより、魔術性や神秘性はだいぶ薄れました。しかし、「今見えている世界」を切り取り、画像として定着させ、ほぼ永遠に残すことができる。写真誕生以前には、人々は想像すらできなかったはず。
写真の定義を調べてみると、理屈っぽい言葉が大半を占めていました。当然ながら、「魔術的、神秘的」などという言葉は出てきません。僕にとって、一番真っ当に思える定義は、次のようなものでした。
「写真とは、光学的な映像や、放射線、粒子線の痕跡を可視的な画像として固定する技術の総称」(日本大百科全書)
確かにその通りですね。これにはレントゲン写真も含まれます。レントゲンも、考えてみるとずいぶん魔術的で神秘的。神の領域に半分手を伸ばしているような気がしてしまいます。
今日展開していきたい話は、当然ながら写真の定義ではなく、写真の持つ本質的な機能であったり、人々にどのような影響を及ぼすものなのかということ。ただ、この点を考えるには、「写真は今なお神秘性を帯びた表現手段なのだ」ということを理解しておかなければなりません。
絵画であれば、何もない空間の中でも、頭の中にある映像やイメージをキャンバスに描いていくことが可能であるはず。また、目の前の風景やモデルをそのまま形通りに描く必要はなく、心に見えた通り自由自在に描くこともできる。写真とはこの点が決定的に異なります。
写真はカメラという機械を使用し、レンズを通して画像を固定する。写真は「被写体がなければ成立しない」。しかも、カメラは被写体を「忠実に平面上に写し取る」。この大原則に抗って、さまざまな写真家が実験的な技法を試みてきましたが、写真史のメインストリームとなることはありませんでした。カメラを使って、被写体を忠実に平面的な画像として固定する。ここに写真の最大の特徴があるのです。
表現手段はさまざまあるものの、写真家に求められる最大の資質は、「何をどのよう見るか」ではないかと思います。まず、何を見るか? 木を見るか、森を見るか、葉っぱを見るか。次に、どのように見るか? 枝振りを見るか、木肌の質感を見るか、主題と背景との関係性を見るか。
目に飛び込んでくる無数の視覚情報を一瞬のうちに判断し、写真家は立つべき場所に立ち、自分の信じる方向へカメラを向け、最適なタイミングでシャッターを押す。カメラという機械を通して得られた映像であっても、そこには「写真家の意志」が反映されています。誰が撮っても同じということにはなりません。
なぜ、この位置、この角度、このタイミングなのか? 確信を持ってシャッターを押す、その根拠はどこにあるのでしょう。
僕は学生時代、「写真芸術」(金丸重嶺著、朝日選書)という本に出合って、すこしだけわかりました。その中には、このような一文が書かれていたのです。
「写真家の目的は、技術の操作者ではなく、それによって、混沌とした現実の形に秩序を与えることである」
僕は読みながら、うなり声を上げると同時に、ほとんど感動していました。そうか、「秩序がキーワードだったのだ!」とわかった瞬間でした。
「写真とは混沌とした現実から秩序を見いだすもの」
その時以来、僕の写真の定義はこのようにまとまりました。正確に言うと、自分の写真作品の定義ですね。
たいていの人は風景のなから「美」を発見したいと思っているはずです。ところが、現実の世界は美しいものと醜いもの、そしてどちらでもないものが混ざり合っている。それは街中でも観光地でも自宅の庭でも同じ。どこにでも「美」は含まれています。
では、どうすれば美を発見できるのか? 金丸重嶺は「秩序を与える」と書いていますが、写真家の行為としては「現実の中にある秩序を発見すること」ではないかと思っています。ここで言う秩序とは、目の前にあるものの法則性とか関係性といったこと。
写真を撮っていると、ある特定の空間から調和を感じることがあります。室内で撮影する場合は、その部屋の所有者の意志が伝わってきます。風景撮影の場合は、大自然の意志ということになるのでしょう。一枚の写真にはさまざまなものが写り込みます。それらには何かしらの法則性や関係性がある。自分が発見した秩序を一枚の画像として固定する。ここに写真家は執念を燃やし続けている。そう考えてよいでしょう。
しかし、話はこれだけで終わりません。もうひとつの事実に気づくことになるのです。(続く)