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第4話 写真とは何か?(後編)

第4話 写真とは何か?(後編)

「意識と無意識」( 1982年) (c) Atsushi Takahara 

おはようございます。
 雪かきによる筋肉痛が少し遅れてやって来ました。パソコンに向かっても仕事にならず、休日的な一日に。水曜日から再開される新入社員研修に向け、準備をせねばならないのですが……。
 僕の場合、自分の立てた計画よりもちょっと遅れて作業が進むという傾向があります。はっきり自覚したのは個展を開催するようになった頃から。毎回ぎりぎり。個展会場で署名を入れることもしばしば。それでも会期は決まっています。必ず開会まで間に合わせることになる。このパターンは雑誌・広告の仕事をするようになってからも、しっかり引き継がれました。褒められた仕事の仕方ではありません。けれども、ここに何か意味があるような気がしてなりません。
 さて、今朝は「写真とは何か?」の後編。写真家は混沌とした現実の中から秩序を発見し、一枚の写真に定着させるわけですが、写真家はその後も続く「写真の神秘性」に驚くこととなるのです。

写真には二度発見がある

大勢の人がその場にいて、同じ風景を見ていても、写真家は人とは異なる風景の見方をしているものです。そして、自分の立つべき場所に立ち、カメラを向けるべき角度を決め、最適と思われるタイミングでシャッターを押す。それが写真家にとって最大の表現活動といえるでしょう。
 フィルム写真の時代であれば、その後にフィルム現像、引き伸ばし(プリント)と続きます。その中にも多彩な表現活動があるのですが、撮影の時点で写真の良し悪しはほぼ決まってしまいます。デジタル写真の今も、やはりシャッターを押した時点で、写真の価値がほぼ決まると考えてよいと思います。
 混沌とした現実の中から秩序を見いだす。多くの写真家はそこを目指しているわけですが、実際に撮影した写真すべてに秩序が感じられるわけではありません。当然ながら、価値を感じる写真とそうではない写真とがあるわけです。
 フィルムの時代には、ベタ焼き(コンタクトプリント)を作成し、ルーペをのぞきながら「引き伸ばす価値があるかどうか」検討していました。印画紙一枚にフィルム一本分(35ミリカメラなら36枚)がプリントされています。その中に一枚も見つからないと大いに落胆します。その逆に一本の中に複数枚発見することもある。
 デジカメの時代になっても同様。撮影したすべての写真をいったんフォルダに入れ、モニターに映しながら、使える写真かどうか検討されることになります。

取材の仕事の場合はすぐに編集者に写真を渡さねばなりません。このため、撮影直後に写真を選ぶことが多い。このときは撮影時の感覚が自分の中に残っています。ですから、撮影したときに近い心の状態で取捨選択を行うことになります。
 ところが、撮影から数ヵ月、数年、ときには10数年たってから写真を選ぶということもあるんですね。時間が経過すると、どういうことが起こるのか?
 「自分もまた写真の鑑賞者である」という事実に気づくのです。そうして、ひとりの鑑賞者として自分の写真を見つめ直す。その過程で、撮影時とは異なる「第二の発見」が得られることがあるのです。これには本当に驚かされます。撮影時、あるいは撮影直後にはまったくわからなかった秩序。それが数ヵ月、数年、10数年後、自分の目に飛び込んでくるのです。
 どうして気づかなかったのだろう? いつもそう思います。しかし、よく考えると、これは「必然性があってそのようになっている」と考えるべきなのかもしれません。
 絵画、写真、彫刻などの作品を見て「美しい」と感じるのは、どうしてなのでしょうか。100%そうとは言い切れないかもしれませんが、僕は、生まれてから今日までの視覚体験が「美しい」と感じさせているのではないかと思っています。美しいものを見て、心地よい、楽しい、安らぎ……といったプラスの気持ちを得る。そんな視覚体験を重ねるうちに、自分にとっての「美の基準」が形成されていく。
 そうした視覚体験は子ども時代だけではなく、今も積み重ねられているはず。大人の視覚体験はもっと複雑なものとなるでしょう。そう考えると、ひとつの謎が解けてきます。
 撮影した時点から時間が経過すればするほど、新たな視覚体験が増えていく。そうして、過去には気づかなかった秩序または美に気づくことがある。僕はそのように解釈しています。

不思議なのは、撮影時の自分は気づいていなかったのに、「なぜ、その場所に立ち、特定の角度にカメラを向け、シャッターを押したのだろうか?」ということ。実際、自分ではよくわからないまま写真を撮ることがあるものです。美しい、素晴らしい、と自分では思っていないのに撮っていることがある。撮らねばならないような気がする……。そんなぼんやりとした気持ちで撮るのです。
 大袈裟に言えば「何かに導かれるようにして撮っている」ということになるのでしょう。本当にそうなのかは僕にはわかりません。
 ただひとつ言えることは、「写真に残すべき必然性があった」ということ。理解はできなくても、気配を感じ取ることができたのでしょう。視覚体験は人間的成長のひとつでもあります。撮影しながら、自分の成長の方向性を模索しているのかもしれません。撮影時に何らかのインスピレーションを得て、気づかぬうちにその後の視覚体験につながっていく……。考えすぎでしょうか?
 写真家は自らの意志によって写真を撮るわけですが、常に明確な意志があるわけではなく、無意識に導かれるようにして撮ることも実際には多いものです。このよくわからない無意識が、写真に神秘性あるいは魔術性ようなものをもたらしている。自分は本当に自らの意志で撮影しているのかどうか、わからなくなることがあります。

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