おはようございます。
8時半、網走の宿から小清水へ向かう。前日からここを何度も往復している。おかげで素晴らしい景色を繰り返し見ることができる。取材は9時から。森の中を歩く。ずいぶん早いペース。立ち止まって撮影していると見失いそうだ。考えて撮ることをやめてみた。たぶん写真の仕上がりに大差はないはず。これは「ふだん考えていない」ということではなく、過去の考えの蓄積があるから。僕はそのように都合よく解釈している。それにしても、小清水にこんな場所があったとは知らなかった。取材後、止別のニハチ食品へ。ここで「鮭とば塩味」を大量購入。半年分くらい買ったつもりだが、3ヵ月くらいで食べてしまうかも。我が家の冷凍庫には鮭とばが常備されていなければならない。いつもそう思っている。
昼食は斜里。訪ねてみると素晴らしい場所と店。急遽取材ということになった。今回はとりあえず撮影がメイン。何だか、体にやさしい味がした。
最後の目的地は津別。久しぶりに訪ねた場所。すごいなぁと思うような話。そして、本気になればたいていのことはできる、とも思った。3時少し前、この日の予定をすべて完了した。まだ時間がある。相生の道の駅に立ち寄ってから、シゲチャンランドへ。I氏は初めての入園。僕も改めてすべての展示物を鑑賞する。世の中には至るところに「顔」があり、不思議な「生き物」が潜んでいると感じた。6時帰宅。帰宅すると鮭のチゲが待ってた。昨日は食べ物に恵まれた日だった。
一生食べ続けるであろう鮭とば
今回の取材とは関係ないのですが、小清水方面の取材ではいつも盛り上がるものを感じています。それは素晴らしい鮭とばが買えるから。この味を知ってしまった以上、もう引き返すことはできません。直売店があるのは止別駅のすぐそば。僕としては、ニハチ食品の鮭とばは「止められない、別れられない」食べ物。たぶん、この先、歯が丈夫である限りは食べ続けることになるでしょうね。そう思える食べ物が人生の中にあるということは幸せなことだと思っています。
鮭とばに限りませんが、やはり一番大切なのは素材のよさ。次に言えるのは「できるだけ余計な味付けをしないこと」だと思っています。味付けだけであればまだよいのですが、添加物や保存料を加えてあると食べ物とは思えない何かを感じてしまいます。
この「何か」に敏感になると、スーパーで売られている漬け物が買えなくなりますし、ハムやソーセージも食べられなくなる。僕の場合は、「口に入れてから考える」タイプなので、食べてからちょっとした後悔の念を味わうことが少なくありません。どうして日本はここ4、50年の間にこんなことになったのだろうと思ってしまいます。
そんなわけで、買い物をする際には原材料名がシンプルなものを選ぶようになりました。鮭とばなら「鮭、塩」が僕にとってはベストな選択。スーパーではなかなか見かけませんが、あるべき場所にはそうした食品が存在する。なかなか見つからないので、それを探すという楽しみはある。ただ、「なかなか見つからない」という日本の現状には、ちょっと恐ろしいものを感じてしまいますね。本当はどこでも買えるようでなければならないはず。
そういえば、M氏が「子供の頃は魚がめずらしかった」といった話をしていました。物流が発達していなかった時代。手に入るのは干物か缶詰? 詳しいことは聞いていませんが、物流の発達と添加物との間には深い関係がありそうです。日本全国どこにいても手に入る。代わりに、原材料名がシンプルな加工品は手に入れにくくなった。
最小限の味付け
僕らのまわりにある食べ物(加工品)は、味が「ある一定の範囲内に調整されている」と感じることがあります。これはマーケティングの結果、そのようになったのだろうか? 人工的な味がするが、食べられなくはない。そんな味。そうした味付けに子供時代から慣らされてしまうと、その味がその人にとってのスタンダードとなる。その結果、梅干しはハチミツ入りがいいということになるし、鮭とばはソフトタイプを何の疑問もなく食べるようになる。
強烈に酸っぱい、しょっぱいという食べ物が少なくなったような気がします。塩引きの鮭というのも見かけなくなりました。ひとかけらでお茶漬けが一杯食べられるような鮭。
今ある強烈なものは、激辛なスープカレーとか激甘なスイーツなど、限られているような気がします。あとは辛くも酸っぱくもしょっぱくもない、ある範囲内に調整された味付け。それでいて、食欲をそそるように味は濃いめに調整されている。食べ物の素材本来の味からかけ離れた味付け。長年、そうした味付けに慣らされてしまうと、素材そのものを感じたいという欲求が消滅してしまうのではなかろうか?
そんなわけで、僕はどんどん素材主義的傾向が強まってきているような気がします。といっても、ローフードに関心はありません。普通に焼いたり、ゆでたり、生のまま食べたり。素材感を楽しみ、できるだけ最小限の料理、最小限の加工を行ったものを食べたいということです。素材に恵まれている北海道であれば、そういう食生活が一番よいのではないか思います。
これは僕の写真の撮り方にも共通する考えといえそうです。僕の写真はほぼ無添加。もちろん味付けはするのですが、軽く塩コショウをふる程度です。その塩コショウも、雑誌スロウで写真を撮るようになってから、ずいぶん薄味になりました。料理や商品写真以外ではストロボを使いませんし、レフ板を使うことも滅多にありません。技術が必要なときには使うけれど、極力使わない。たぶん、我が社の雑誌媒体はそのような素材主義的な傾向が強いのではないかと思っています。
鮭とばを噛みしめれば、そこには十分すぎるほど深い味わいがある。それ以上何を加える必要があるのか? 昨日は車の中で鮭とばを食べながら、素材本来の持つ味わいについて考えていました。