
「untitled」( 1999年、Gallery・DOT) (c) Atsushi Takahara
おはようございます。
昨日の次世代幹部養成塾は読書会。「7つの習慣」が課題図書でした。「重要事項を優先する」という話が出てきますが、そもそも次世代幹部養成塾がみんなにとって重要事項になっているかどうか? ここがひとつの問題。重要事項(第二領域)になるよう、質を高め続けなければなりません。
夕方には幹部会議が行われました。みんなには無理なお願いをすることになりました。とにかく時短を強力に推し進めることにしたのです。思う存分働きたいと思う人にとっては働きにくい時代かもしれません。しかし、メリットもある。限られた時間内に成果を上げるわけですから、高い仕事力が求められることになります。かつては「長時間働くことで仕事力を高める」やり方でしたが、今は「必要に迫られて仕事力を高める」という時代。後者のほうが差し迫った課題といえます。きっと何人かがブレイクスルーして、新しい何かを生み出してくれるでしょう。
今朝は「いい写真から何が生まれるのか」について話してみたいと思います。
写真家と鑑賞者は対等
前回書いた通り、いい写真かどうかは鑑賞者が決めるべきものです。どんなに高い評価が確立している作品であっても、見る人によっては「つまらない写真」となることがある。いい写真かどうか? それは主観的なものなのです。
だからこそ、写真鑑賞力を高めることが求められるのではないかと思います。人々にインスピレーションを与えるだけのパワーを持った作品というものが世の中には多数存在します。そうした写真からのメッセージを受け取っている人といない人とがいる。これは人生を豊かなものにする上で、とても重要な能力といえるのではないでしょうか?
いい写真から僕らが得られるもの。それはインスピレーションであったり、考える手がかりであったり、これまでにないイメージだったりします。
具体的にそれがどんなものであるかについては、僕の口からはうまく説明することはできません。ただ、僕の場合はどうかというと、「ありふれた風景を見る目が変わった」という大きな変化が起こりました。これによって、僕の日常生活はずいぶん刺激的なものに変わってきたような気がします。目の前にある何気ないものに興味を持ったり、目に映る風景の中に謎が埋め込まれていることに気づいたり……。
いい写真を見る。そうしたトレーニング(?)を重ねることで、写真鑑賞力が高まるだけはなく、ふだん目に飛び込んでくる視覚情報の見え方が違ってくるのです。
僕はずっと以前から「写真家と鑑賞者は対等である」という考え方を持っています。少なくとも、35年前から持ち続けている考え方。実際、口に出してそう主張した時期、シチュエーションもよく覚えています。
自分の個展会場に身を置くと、そのことがよくわかります。写真家は風景と対峙し、そこに秩序を見いだし撮影する。そうしてできた写真を厳選し、個展で発表する。無数の写真の中から厳選するわけですから、意識するしないに関わらずメッセージ性が秘められている。展示されている作品群を、来場者は自分の視覚経験と照合しながら鑑賞する……。
ここで重要なのは、「視覚体験は人によって異なっている」ということです。写真家だから、素晴らしい風景を数多く見てきたというわけではありません。子ども時代から豊かな視覚体験を重ねて育ってきたという人もいますし、あるとき気づいて物事を注意深く観察する習慣を持つようになった人もいます。
「見る」という点では、写真家も鑑賞者もまったく同じ。対等なのです。そして、「写真作品を見る」という活動を通じて、鑑賞者は写真家の視覚体験を追体験したり、自分の過去の視覚体験を思い出したり、新たな視点を手に入れて過去に見た風景に対して異なる解釈を試みるようになっていきます。写真を見ることで得られる最大の収穫がここにある、といってよいでしょう。
個展では鑑賞者から「新たな視点」がもたらされることもあります。「これって、○○のように見える」。そんな言葉で伝えられることが多い。写真家は作品づくりを通じて新たな視点の提供を試みるわけですが、同様に写真鑑賞者も新たな視点を写真家にもたらす。そのようにして、お互いの持つ感性が豊かなものになっていくことになります。
写真の見方、鑑賞の仕方には正解も不正解もありません。何をどのように見ても鑑賞者の自由。むしろ、幅広く解釈できるような写真のほうが、僕にとってはいい写真であることが多い。解釈の幅が狭いもの、見方が固定化されているものは、たとえインパクトの強い作品であっても知的好奇心をかき立てられることはありません。
解釈の幅を広げる。そう心がけているわけではありませんが、自分の写真に関しては自然にそのような制作の仕方になっているところがあります。できるだけ作り込まないようにしている。特に雑誌スロウの中で「記憶の中の風景」を連載するようになってからは、よりストレートな表現の仕方に変えていきました。
そうすると、どのようなことが起こるのか? 写真の中に「謎」が埋め込まれている(または埋もれている)という状態になる。写真家は謎を掘り起こして、誰の目にも明らかな秩序や美を固定化させたいと考えています。ところが、ストレート写真の場合は技術をあえて使用しませんから、謎が謎のままになっていることが多い。
一見すると、ストレート写真のほうがわかりやすいと思うのですが、「目に見えたそのまま」に近い写真のほうが実はわかりにくいのです。
謎の存在に気づくと、気になるものです。あえて、謎を解く必要はないような気がします。気になって、ときどき眺めてしまう……。そんな写真が自分の作品の中にもあります。そうした写真に共通していえるのは、どれも「地味な作品」であるということです。