
「untitled」( 1999年、Gallery・DOT) (c) Atsushi Takahara
おはようございます。
昨日は十勝経営者大学第8講。講師は弁護士の岩﨑優子氏。「不動産を巡る法律問題」というテーマでした。具体的でためになる話。不動産登記簿の見方がよくわかりました。
考えてみると、「見る」という言葉は、非常に広い守備範囲であることがわかります。テレビを見る。風景を見る。それだけではなく、決算書を見る。登記簿謄本を見る。「読む」に近い使い方をすることもあります。文章になっていない文書を閲覧するようなときには、「見る」を使うことが多いような気がします。
今回は「見る」について考えてみることにしましょう。
一方向から見るか、立体的に見るか
僕は「見る」という言葉について、高校生の頃から20代後半にかけて、ずっと考え続けてきました。それほど考える題材が多いわけではありません。ぼんやり考えていた……というのが正直なところ。
見る、視る、観る、看る、診る。「みる」にもいろいろありますね。このうち、写真と関係が深いのは「見る、視る、観る」の3つでしょう。
大学時代、レポートの中で「視る」と書いたら、「そんな漢字の使い方はない」と注意されたことがあります。僕は「ええっ?」とビックリしました。写真家が被写体を「みる」ときは、「見る」ではなく、「視る」という状態であるはず。そう信じ込んでいたのです。
何となく、それ以来、「視る」は使いにくくなってしまったのですが、今こうしてパソコンで漢字変換しても、普通に「視る」と変換されます。30数年前の出来事は何だったのだろうか? ちょっとした謎として残っています。
それはさておき、「写真を見る愉しみ」では、これまで一貫して「見る」を使用してきました。一番広く使われている「見る」は、「目を使って対象物を捉える」という点で、どのようにも使うことのできる言葉です。
一方、「視る」の場合は、「注意深く見る」という意味が込められる。注視するということですね。僕は高校から大学にかけて、僕は風景を見るのではなく、「視て」いました。きっとゴルゴ13のような鋭い目つきで風景を視ていたような気がします(本当かな?)。風景の中から何かを発見しようと懸命に求めていたのです。
そういう写真の撮り方は30代に入ってからも、しばらく続くことになりました。ただ、「視る」ではない、見方をするようにもなっていきました。それが「観る」なんですね。
20代の頃の自分を振り返ってみると、当然ではありますが、今の自分よりもずいぶん視野が狭いことがわかります。一点を注視、凝視する。そんなものの見方でした。しかし、それは自分の認めるもの以外は、軽視(場合によっては敵視)することでもあったのです。自分の価値観に合わないものは軽く扱ってしまう。そんな視野の狭さが自分の成長の妨げになっていたのかもしれません。
対象を一瞬見ただけで簡単に結論を下すようなものの見方をしてはいけない。30代後半あたりから、そんなふうに考えるようになっていきました。もっとバランスのとれた人なら、僕より10年くらい早く気づいたことでしょう。「視る」から「観る」への変化。多くの人が経験していることと思います。
「観る」という言葉も、注意深く対象を見るという点では「視る」と変わりありません。しかし、見方が違っているんですね。
「視る」が一点に集中したり、一方向から対象物を見ているのに対し、「観る」の場合は、全体を見たり、さまざまな角度から対象物を見ているのです。簡単には結論を下さないようなものの見方。これは写真を撮る際にも、作品を鑑賞する際にも求められる態度といえます。
写真家が被写体を見る際には、「視る」と「観る」の両方が混じり合っていることが多いのではないかと思います。鋭く視ないと撮れない写真もあるからです。
一方、写真作品を鑑賞する場合には、「観る」という気持ちを持つことが大切ですね。写真は視点を変えることによって、さまざまな見方ができるものです。撮影者の心情に自分を重ね合わせることもできれば、被写体の気持ちになることもできる。もちろん、客観的に観察することも可能です。
自分の人間観、人生観、仕事観といった価値観と照らし合わせながら、一枚の写真を観る。こうした立体的なものの見方をすることで、写真作品がより味わい深くなるのではないかと僕は考えています。
「観る」にシフトしていったことで、僕の風景を視る目はどのように変わっていったのか? 僕は以前に比べて、ずいぶんやさしい目で風景を視ることができるようになったような気がします。
20年以上前の僕は、ハンターのような視線(?)で写真を撮っていたような気がします。実際、英語では撮影することを「シュート(shoot)」と言います。鉄砲を撃つ、矢を射るときに使うシュートと一緒。その昔、シャッターを押すたびに「シュート」と叫ぶフォトグラファーがいて驚いたこともありました。
今は、「自分の思い通りに写っていなくてもいい」という気持ちで撮影することが多い。撮影という行為は、たとえ風景撮影であっても「被写体との共同作業なのだ」と思えるようになってきました。だから、自分の思い通りにしようと考えるのが間違いではないのか? まだ僕の中で結論は出ていませんが、次第にそんな心境になってきたのです。
実際、思い通りにならないほうが、自分の思いに近い写真になっている。ここが写真の神秘的なところでもあります。
