
「untitled」( 1999年、Gallery・DOT) (c) Atsushi Takahara
おはようございます。
3月も中盤。今週も全力で仕事に取り組んでいきましょう。昨日はほぼ一日パソコンに向かっていました。果てしなく続くかのように思える作業でではありますが、パターンが見えてくると、そこからスピードが急速にアップします。手探り状態でやり始めたことであっても、パターンと全体の構造を把握した時点で、やり方がわかってくる。写真を鑑賞する際にも、同じことが当てはまるのではないでしょうか?
今回は、これまでに比べると少しだけ具体的な写真の見方について、話を進めていこうと思います。ただし、ちゃんと伝わるように話すことができるかどうか、ハッキリ言って自信はありません。写真鑑賞力に加え、皆さんの文章読解力に期待しながら書き進めていきます。
写真家は被写体を操作せず、認識する
僕は2000年までモノクロで作品を制作、発表していました。世紀の変わり目だからカラー写真に転向したというわけではありません。2000年5月、帯広にUターンし仕事及び作品の制作環境が変わったというのが最大の理由。今もモノクロでの作品制作には魅力を感じます。たぶん、あと10年以内にはモノクロでの制作を再開することになるでしょう。
それはともかく、モノクロで個展をしていた頃の話。来場者の方からときどき感想を耳にしました。個展会場で感想を聞くのは非常に苦手です。何しろ、自分をさらけ出している場所ですから……。それでも平静を装いつつ、拝聴することになります。
たまに出てくる感想のひとつは、「わからない」というものです。
僕の想像するところ、これには2つの理由があります。ひとつは「写真の意味がわからない」。もうひとつは「意味はわかるが写真に価値があるかどうかわからない」というもの。
僕の作品はどちらかというとわかりやすい部類。自分ではそう思っています。写真を見てもあまり感じるものがなかった……ということなのかもしれません。ただ、被写体至上主義者(写っている被写体にのみ関心があるという写真の見方をする人)にとっては、僕の写真はきっと退屈極まりないものでしょう。落ち葉、枝、石ころ、雑草、水たまりといったものばかり撮っていますから。
写真に写っているものは何なのかわかる。けれども、その意味がわからない。わかるように撮るのが写真家の務めなのか、わかろうとする努力が鑑賞者に求められるのか? このあたりは、今も僕が考え続けているテーマのひとつです。
ちゃんとわかってもらおうとすれば、写真家は「ある一線」を踏み越えていくことになるのではないかと思います。それは、「被写体に手を加える」という手法。撮影者のイメージ通りに被写体を配置したり、自分で作ったものを置いてみたり……。やり方はいろいろあります。それを意図して行う撮影手法は、コンストラクティッド・フォトグラフィ(構成的写真)と呼ばれています。
1980年代によく見られたスタイル。どちらかというと写真家ではなく、現代美術作家による発表作が多かったと思います。多くの写真家は「すでに存在している被写体」への関心のほうが強い。だから、「わからせよう」とする制作手法には、心理的抵抗を覚えてしまうのです。
写真家にもさまざまなタイプがありますが、何かを表現しようというよりも、被写体を認識しよう、何か法則性を発見しようという意識に向かっていくものです。それが写真に取り憑かれている人の共通項ではないかと僕は考えています。このため、ストレートな写真づくりに打ち込んでいる人ほど、「わかりにくい写真」ということになるのかもしれません。
秩序という言葉は、「望ましい状態」「順序や決まり」といった意味でよく使われています。しかし、抽象概念としての秩序は、僕にとってわかりにくい。「宇宙の秩序」と言われても、ちょっと困ってしまいます。
実体はよくわからないけれども、自分がその気になれば感じ取ることのできるもの。それが秩序ではないかと思います。一枚の落ち葉を見ても感じることがありますし、日高山脈の山並みからも感じます。雪の結晶などを見ると、これこそ宇宙の秩序ではないかと思うことがあります。
「自然や社会を一貫して支配している原理、法則性」。それが何なのかをハッキリ指摘することはできませんが、写真家は映像表現によって部分的にそれを明らかにしようと試みるわけです。自然の中、あるいは街の中にある秩序らしきもの。それは宇宙の意志による場合もあれば、人間社会の中で自然に形成されていったものもあるでしょう。
大事なことは、写真家が意図的に作り上げたものではないということ。被写体は自然であっても人工物であっても構いません。僕の写真の被写体も人工物であることが少なくない。意図して生み出したものではなく、「気づいたら自然にそうなっていた」ということが重要なのです。
自分という人間にも、同じことが当てはまります。「自分で意図してそうなった」という自分と、「気づいたらそうなっていた」という自分。両方あるはずです。自分の人生計画通り100%、人生を作り上げることができるのであれば、人生のおもしろみや魅力といったものは半減してしまうのではないかと思います。予期しない出来事が起こり、自分の意図しない方向へ人生が展開する。その中で自分のあるべき姿を模索し、よりよい人生を創造していく……。筋書き通りにいかないからこそ、人生は魅力的なストーリーとなっていくのです。
写真家には意志はあっても、被写体を意図的に操作するようなことはありません(写真家の表現スタイルにもよりますが)。秩序に対して、何か神聖なものを感じ取りながら写真を撮っているからだと思います。
