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写真論06 思考の手助けとしての写真

写真論06 思考の手助けとしての写真

おはようございます。
 午前9時20分出発。10時過ぎ、更別村ふるさと館に到着。10時半、十勝シーニックバイウェイ南十勝夢街道フォトコンテスト表彰式。表彰の後、審査委員長として作品を講評させていただく。応募作品全般について、あるいは風景写真について語るのはたやすいが、個々の作品について講評するのは容易ではない。僕の作品の見る目には偏りがあるからだ。自分が写真評論家ではなく、写真家であることを思い知らされる。編集者としての自分のほうが写真について語れるのではないかと思った。表彰式は1時間ほどで終了。
 昼過ぎ帰宅。3時頃からパソコンに向かう。眼精疲労を感じていたが、最低限行っておくべき仕事があった。パワーポイントでプレゼン資料の作成。過去のものをつなぎ、修正することでほぼ完成した。

表現と記録

写真を始めた頃から30代の頃まで、僕は写真で何かを表現しようという気持ちが強かったような気がします。写真とは「表現」よりも「認識」である……と考えつつも、自己表現を強く意識していたところがありました。今でもそういう気持ちは消えておらず、たぶん10年後にはそのような表現活動を再開しているのではないか、と思うことがあります。自己表現としての写真制作は、徒労感と小さな達成感を交互に味わいながら、長い時間と膨大なエネルギーをかけて行われる。とても、趣味的にできるものではない。現時点で、僕はそのように結論づけています。
 写真には、「表現」とは別に、「記録」という重要な機能があります。記録は「思考の手助け」となるもの。表現と記録との間に、明確な線引きをしているわけではありませんが、ここ10数年間、僕は表現をできるだけ抑制して記録を重視した撮り方をしてきました。
 もちろん、それは客観的な撮り方という意味ではありません。主観的な撮り方になっていることを自覚しつつも、写真の記録性を考えながら撮ることが多かった。そう思っているのです。
 表現を抑制することで、雑誌スロウに掲載しても違和感を感じないような写真となりました。自己表現が強くなると、共感を得られる読者の範囲が極端に狭くなるのではないかと思います。もちろん、表現力によってはその限りではないでしょう。しかし、スロウは個人の作品発表の場ではないので、全体の調和を意識した制作の仕方となります。創刊から15年。抑制的な写真制作を続けてきたことで、記録の持つ神秘的な作用といったものを強く意識することとなりました。
 と言っても、そんなに大袈裟なことではありません。たとえば、10年前の自分と今の自分の顔写真を比べると、そこに10年という時間の隔たりを感じることになる。そのようなことです。
 なぜか、僕の部屋の棚の上に、20代の頃の証明写真が無造作に置かれていて、たまに目に入ることがあります。そうすると、それは紛れもなく「自分」なんですね。今の自分とはずいぶん違っているように見えるのですが、その頃の自分の記憶は今も存在している。僕の一番古い記憶は3歳のもの。とすると、55年分の記憶が自分の中に今もある。
 写真は自分の記憶を強化してくれるものでもあります。不完全な記憶を補完する。つまり、自分の思考の手助けとなるんですね。我が社の50年前の社屋から、あるいは学生の頃や東京時代の記念写真からも、古い記憶がよみがえってきます。そうして、当時の出来事の意味を改めて考えることができる。これは写真の持つもっとも重要な機能ではないかと思います。

時間による変化

長い間、僕は自分の撮る写真には、極力人工物は写り込まないようにしよう……と考えていました。今でも風景を損なうような人工物は避けるようにしています。写真としての味わい、風景としての魅力を考えると、それは当然ことといえます。
 ただ、人工物が写っていることで価値が増す写真というものがある。遅ればせながら、10年くらい前からそのような考えを持つようになっていきました。
 きっかけとなったのは、あるプロジェクトで昭和の十勝の写真を集めるという仕事を行ったこと。僕はほとんどノータッチの仕事でしたが、集まった写真の一部を見て、昭和30年代、40年代の写真に強く惹かれるものを感じたのです。確かに、昔の帯広駅前はこんな街並みだった……。ぼんやりしていた映像が、モノクロ写真とはいえ、急に鮮明なものとなった。看板に書かれている店名からも古い記憶がよみがえってきます。写真の持つ力を再認識することになりました。
 今、僕らが何気なく撮っている写真も、10年後、30年後、50年後に見る人にとって、何か特別な意味を与えることになるのではないか? そう考えると、記録に徹した撮り方というものにも意義があるように感じられます。人工物と人物。数日、数ヵ月では変化に気がつかなくても、5年、10年と時間が経過すると、確実に過去を意識することになるでしょう。そして、今との関係性について考えたとき、撮影したときには気づかなかった(または存在しなかった)価値に気づくわけです。僕にとっては、それが神秘的な力であるように思えてなりません。
 僕は仕事を通じて、数多くの写真を撮っているわけですが、撮るべきものを撮っていないのかもしれません。今撮らなければ、今はあっという間に過去になってしまいます。自分の作品でもなく、仕事でもない類いの写真。案外、ここに重要な意味を持つ写真がある。そう考えると、カメラは手放せませんし、スマホで撮ることにも大きな意味がある。
 今はデジカメやスマホのおかげで、老若男女、誰もが写真を撮っています。次世代の人たちにとっては「思考の手助け」が十分すぎるほどある。ありすぎて、逆にありがたみを感じないかもしれませんね。

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