
おはようございます。
睡眠時間確保を優先。ブログを書くのを後まわしにし、朝4時まで眠る。5時15分出発。6時15分、白老着。足裏、腰にカイロを貼る。防寒対策は万全だ。撮影は7時頃から。前日の暴風とは打って変わって、穏やかな朝だった。1時間半ほど撮影。その後も取材が続く予定だったが、待機時間が長くなり、次の予定が迫ってきた。取材を切り上げ、次の目的地、苫小牧へ。用事を済ませてから帯広に戻る。午後5時頃帰宅。
場所と方向
昔から「木」を好んで撮影していました。高校から大学にかけては、木と石とコンクリートが僕にとっての3大被写体。その後、コンクリートそのものには興味が薄れ、代わりに建造物を撮るようになりました。
3大被写体の中でも「木」に対しては特別な思い入れがあります。やはり、生きているから気になるのでしょう。どうしてこのように幹や枝が伸びているのか? そのあたりが非常に興味深い。生長過程のどこかで、やむにやまれぬ事情があったのではないか。そんなことを想像しながら撮影すると、妙にその木に対して愛着が湧いてきたりするものです。
本当はこちらの方向へ伸びていきたいのに、立ちはだかる障害があって別な方向へ伸びていくしかない。あるいは、崖にへばりつくように立っているため、最初から伸びたい方向へは伸ばせないことがわかっている。そのような木々と出合ったとき、さして意味はないのですが、人生と重ね合わせてみたくなるものです。
1987年から88年にかけて、木ばかり撮影していました。木の幹よりも枝のほうが気になっていて、いつも上のほうばかり見ていた。35ミリカメラで普通にファインダーを覗くと首が痛くなってくる。撮影中、首を上に向けなくていいよう、アングルファインダーを使うなどしていました。また、二眼レフを使うこともありました。
この頃の僕は、どの方向へ「枝」を伸ばしていったらよいのか、自分でもよくわかっていなかった時期でした。人間はしょっちゅう選択を誤る。なのに植物は、僕の目から見ると何の躊躇もなく、正しい方向へ枝を伸ばそうとしている。どうしてそのようなことができるのか? 僕には不思議に思えました。
そして、僕は写真を撮りながら非常に重要なことに気づいたのでした。ある場所のある高さから、ある方向へ視線を向けると、そこに見事な調和を発見することができるということ。木々は自己成長を競い合いながらも、全体の調和を求めて棲み分けている。葉が落ちて枝だけとなった冬の広葉樹を見ると、そのことがよくわかります。
撮影に際しては、どこに立ち、どの方向へレンズを向けるのかが重要となります。僕の思い込みかもしれませんが、ひとつの被写体に対して、立ち位置は1ヵ所しかない。そう考えています。その最適な1ヵ所を見つけることができるかどうか? 1987~88年頃の僕は、そこに全神経を集中させて撮っていました。
見えなかったものが写る
こういう撮り方をずっと行っていると、人との関わりや日常の生活といったものに対する注意力が散漫になりやすい。深入りすると、怪しい人になってしまいそうな気がします。個展を開催し、別な被写体にも目を向けようという気持ちになっていきました。
ただ、木々を撮りながら、僕はおおよそ会得することができたんですね。どこに立ち、どの方向へレンズを向ければ「調和のある風景」を撮ることができるのか? これはあらゆる被写体に共通する課題。調子のよいときには、一瞬にして、その場所を見つけ、迷わずその方向へレンズを向けることができる。ちょっと残念なのは、僕が会得したのは「おおよそ」というレベルだったこと。「完全に」ではない。なので、「ここだ」と思っても、思い違いだったということがときどき起こる。それも、撮影のプロセスのひとつと捉えるべきでしょう。
木々に限らず、調和のある風景を撮影し、写真を引き伸ばしてみると、さらに別な発見をすることがあります。自分が撮影時に認識した調和を超える「さらなる調和」のようなものがあることに気づくのです。まあ、そういう写真は稀ではあるのですが、見つけたときの驚きは大きい。
自分には見えていなかったものが写っている。これは写真ならではのおもしろさというべきでしょうか。絵画であれば、画家が描かない限り描かれない。ところが、写真の場合は写真家が認識していなくても、カメラが勝手に写し取ってくれる。
ここでひとつの疑問が湧いてきます。本当に写真家は「見えていなかったのか」という疑問。それに対する明確な答を僕は持っていません。ただ、偶然写っていたとは思えないような絶妙な位置に写り込んでいることが多いのです。単なる偶然であるならば、写り込む場所はまちまちとなるはず。無意識的に撮ったのかもしれないが、自分の中にある何ががその存在に気づいていた。僕にはそのように思えてなりません。
20代の頃に比べると、明らかに視力が衰えてきました。メガネで矯正してはいるものの、僕の目の解像力は低下しています。つまり、見えないものが増えてきている。見えるものも、少しぼんやり見えるようになってきています。
これはもしかすると、「調和を超える調和」を映像化する能力が備わりつつあるということなのでしょうか。視力が少し衰えてくると、細部ではなく全体が見えるようになってくる。これは写真だけではなく、人生全般や企業経営にも当てはまることです。撮影では「見ること」がもっとも大切ですが、見えないことを許容することで、自分の表現領域が広がっていくのかもしれません。