おはようございます。
午前11時過ぎ出発。午後1時、釧路空港着。同級生のA氏を迎える。空港内で昼食を食べてから、一緒に釧路市内へ。同級生の父親を記事にするという、これまでにないパターン。2時半から「北海道 来たるべき未来を見つめて」の取材を開始する。膨大な作品群。どのように撮影していったらよいのかわからないまま、ともかくカメラを向け、シャッターを押す。取材のほうは100%ICレコーダーに頼ることにした。ノートをとる余裕はなかった。話はわかりやすかったが、わかるほどに謎が生まれてくる。これはいいパーンといえる。わかりすぎる話はおもしろくないし、謎だけが増えていく話だと、どのように書いたらよいかわからなくなる。「わかる」と「謎」のバランスから、執筆意欲が湧いてくる。
5時少し前、取材終了。街中まで移動し、3人で夕食。美術というよりも、ビジネスの話題が中心となる。7時頃帰途につく。9時少し前、帰宅。
確かな目と確かな技術
昨日取材した話については、今日のうちに書き上げようと思っています。果たして、1日で書けるかどうか? こればかりはやってみなければわかりません。けれども、記憶が鮮明なうちに書いておきたい。そんな気持ちが半分。もう半分は、今年残り1週間ですべての仕事を完了させねばならないという差し迫った理由から。過去最大級にハードな年末となりました。
それはともかく、僕にとって示唆に富んだ取材でした。画家の取材。絵画と写真は単純に比べられるものではありませんが、その創作の仕方、考え方、人生との関連……。さまざまな面で、僕は自分と比較しながら話を聴いていました。そうして、「わかる」という部分と「謎」の部分が、ほとんど交互に現れてきたわけです。
これをどのように文章化すればよいのか? ここは僕にとって難題といえそうです。そもそも、言葉に表すことができないから映像化するのだというのが僕の写真に対する基本的な考え方。絵画の場合も同様でしょう。批評家は絵に対するひとつの解釈の仕方を文章で提示するわけで、絵そのものを言葉に置き換えているわけではありません。
当然、僕も自分の解釈やそこから浮かんできた考えを文章化することとなります。また、スロウの場合は美術評論の雑誌ではないので、ひとりの画家の仕事や生き方を通じて、自分の仕事や人生のヒントとなるような考えを浮き彫りにすることになります。それが今日の夜までにまとめられるのか? 文字数にすると5000字ほどですが、ちょっとしたチャレンジと言えそうです。
取材が始まって、まず最初に「すごい」と思ったのは、風景を見る目の確かさでした。そして、それを描く技術の確かさ。網膜に映る映像を点と線に置き換えて精緻に描いていく。写真をトレースしてもこのようにはならない。点と線なのに、そこに驚くべき空気感が表現されている。「すごい」というひと言では済まされそうにない。しかも、これが初期の作品であり、そこから豊かな表現の世界が広がっていったというのです。
ここで重要なのは、「確かな目」と「確かな技術」というところにあるでしょう。これは絵画の世界ばかりではなく、あらゆる仕事に当てはまるもの。営業でも印刷・製本の仕事にもきっと当てはまる。目の前にあるものを正確に見る。そういう能力があるから、的確な提案ができる(営業)。あるいは品質のよしあしが区別できる(印刷・製本)。目、あるいは認識能力が高いか低いかという問題は、技術以前といえます。
デジタル時代の危うさ
技術は「確かな目」の先にあるものではないかと思います。認識したものを表現(アウトプット)する能力。営業職ではコミュニケーション能力が重要な表現力ということになる。写真、文章、デザインの場合は、素材の魅力を最大限引き出す(必要に応じて自分のアイデアを加える)というところにあります。印刷には情報の再現性、製本には製品としての信頼性が求められる。
いずれの場合も、技術がなければ次の段階には進むことができません。
このあたり、20数年前から世界全体が少し怪しくなってきているのではないか、と思うことがあります。技術はなくても、アイデアだけで形にまとめられる、ビジネスとして成立する……。そんな事例が増えてきたのです。たぶん「アウトソーシング」という言葉が盛んに使われるようになったのが、この頃だったような気がします。
アウトソーシングそのものは悪くありません。ビジネスとしては有効に活用すべきもの。ただし、それを個人に置き換えて考えるときには、注意が必要なのではないか? 自分の技術不足を安易に外注しようという傾向が強まると、自分の創作物なのかどうか、怪しいものとなってしまいます。だから、自分のコアとなる技術については、どんな時代になったとしても自分自身で高め続けなければならない。これはたぶん間違いないでしょう。
デジタルの時代になって、認識が曖昧になっている人もいるような気がします。写真の場合は、技術がなくても、カメラが勝手にいい感じに写してくれることがある。それが何度か続くと、自分の腕前が上がったかのように錯覚するかもしれません。技術のある人もない人も同じように写真が撮れる。しかし、そこには微妙だが決定的な違いがあるような気がします。
精緻に描かれた具象画を描く技術があるからこそ、抽象画を描くことができる。そんな話が取材中に出てきたと記憶しています。これはあらゆる職種の人が心に留めておくべき言葉ですね。
抽象画を描くために、今も具象画を描いている……といった話もありました。このあたり、僕としては実に興味深い話です。絵画も写真も、そしてビジネス全般においても、「技術から自由になる」ことで表現の領域が広がっていくもの。ですが、核となる技術がなければ、その「自由」は不確かな、危うい自由となってしまうのです。デジタル技術で何でもできそうな気持ちに流されやすい今日だからこそ、「技術の確立」を目指す必要があるのではないでしょうか?